第4話『襲撃』

 元は探偵事務所だったコンクリートの経年劣化が酷いオフィスビルの二階、元がそうだったこともあって名探偵がパイプでも吹かしていそうな応接室兼オフィスは、最近まで俺のリビングとなっていた部屋で、そわそわしながら昨日ぶりに高村さんへ通話をかけていた。

 けれど予想通りというか繋がらず、女性の声でお馴染みのアナウンスが流れるだけだ。

 たまらず舌打ちしたくなるが、そんなことをして状況が好転する訳もなければ、そもそも人に見せる姿じゃない、我慢しつつスマホを耳から離し、この場にいるもう一人、鈴へそう伝えた。

「多分、電源を切ってるな」

「……そ、っか」

 俺の言葉に影を落とす少女の顔は、ただ一人の肉親から見放された、そんな絶望を感じさせる。

 けれど考えるまでもない、二人は親子だ。時に喧嘩をすることもあるだろうが、

「親は子を見捨てない、仕事で忙しいだけだろう」

 俺だって小学生の頃、ヒーロー気取りで同級生を殴り飛ばしたことがある。まあ幼かったというのもあってか、警官だった父は得意げな顔をする俺を、怒鳴るのではなく優しく叱ってくれた。

 鈴が何をしてきたのかはわからないが、俺が知る彼女は……悪さなどするような子ではない。高村さんも理由なく子供を放置する人間じゃない。

「でも……もしかしたら酷いこと、言った、かもだから……」

 カーテン越しでもわかる、どんよりと曇った空をまるで映した鈴の暗い表情は変わらない。思い当たる節があったらしく口にした言葉も後半になるにつれ、弱々しくなり、彼女は膝を抱えたまま、顔の下半分を自分の太腿に埋め、視線も斜め下に向けて、動かなくなる。

 第三者目線から見ればそんなことないと言えるが、思春期の子供である鈴からすればそうもいかないのは当然で……要するに後悔している、俺がそうであったように。

 自身のこれまでを振り返り、言動を思い返しては考える。時には自身を責め殺し、深い悲しみに落ちていく。

 結果残るのは……静寂だけだ。

 エアコンが涼風を吐き出す音と、室外機が良く回る音が特に大きくはっきり聞こえるだけの空間だ。

「……今月いっぱいまで夏休みだったよな」

 重苦しいと言い表すには少しの躊躇、そしてその上で適さないと理解しながらも不意に、壁にかかったカレンダーへ視線を動かし、脈絡はない、がソファの上でハーフパンツにキャミソールとブラウスを羽織った私服姿で、体育座りの彼女に聞いてみる。

 もちろん鈴はきょとんとして小首を傾げるが、すぐに頷いてくれた。

――――そして、これは恩返しだ、と心の内で呟く。

 思い返すこれまで、父を亡くし、その空いた穴を埋めようとしてくれたのが、高村さんだ。

 ただの先輩でしかない警官が残していった子供なぞ本来どうでもいいだろう、自身にだって娘がいるのに、なのに見捨てはしなかった。

 その恩を、きっと、父から受けた恩を俺に返したように、俺もそうするのが筋じゃないだろうか。

 陳腐でも使い古されていても、大切な言葉はある。だけど俺は今回ばかりそれを使いたくなかった。大丈夫、そう励ますのは簡単だ、あるいは気にしなくていい、そう言うのだって難しくない。

 だが俺が貰ったものは、言葉だけじゃない。

「約束する。夏休みが終わるまでに高村さんを……鈴、お前の父親を必ず、引きずってでも連れてきて、自分の娘を疎かにしたことを謝らせてやる」

 そこには絶対、行動が含まれていたのだ。

「……! うんっ」

 俺を見る栗色の瞳がぱちくり、暗かった表情が変わるのがわかった。

 それは夜空を照らす煌々とした不夜城のような明るさではない、もっと小さく儚い――蝋燭の灯程度のものだったが、それでも鈴の表情は先程より確かに明るくなったような気がする。

 俺はそれに多少ながら安心した。あれだけ明るい天真爛漫、おてんば娘としか言いようがない子が、これだけ気を落とし続けるのは中々心配になるのだ。

 そうして安堵していると、

「――――えぇ、えぇ、そのままで、のちほど詳細を送ってもらえれば」

 今や女子二人のものとなった俺の元寝室から、アリスがスマホで誰かと通話をしながら出てきた。服装は変わらず、ここを訪れた時に元々着ていたカジュアルな物と同じようなスーツを、初日の日用雑貨と一緒に丸ごと買った二着のうちの一つを着ている。

 特に出かける予定などの話は聞いておらず、なんだろう、そう彼女の顔を見るが、通話相手との話で忙しいらしく、スタスタと給湯室へ行ってしまう。

 どうやら飲み物が欲しかったようで、片手で放置された紙コップを取り冷蔵庫からお茶の入ったペットボトルを掴んで蓋を開け注ぎ、それを飲み干すとまた注ぎ、次にそれを持って寝室へ戻っていく。

――今の時刻は昼前、アリスは朝からずっとあの調子で誰かと連絡をしては何かを確認している。

 ただ、彼女のその様子は少なくとも俺が知るいつもとは違っていて、まさに彼女の紅を微かに混ぜた黒い瞳を見た時に感じた熱意……執着、懇願とも取れる必死さをどことなく感じたのだ。

 ただそれについて聞いても「知らなくていい」とまたそんな風にあしらわれた。

 まあだからと言って今回は引き下がれない。昨日の鈴のことももちろんそうだが、第一は損得勘定で聞けずじまいだったあの目のことだ。

 二年前、意識朦朧とした中で見たあの時の襲撃者と同じように光るアリスの目、全くあれと同じ目を、昨日見てしまった。

「ただ……どうしたものか」

――――考えることが増えていく頭の中、空気が抜けるよう吐いた息と共に、独りごちる。

 高村さんのこともあり、この場でじっとしているだけではわからないことばかり、だからと言って一人で動くこともできないのだ。

 目頭を指で押し、ソファの背凭れに背中を預けたところで、雨が降り出したのかとととっ、と窓を叩く雨音に気づき、目をやる。予報通りの雨にうんざりしつつも、頭を切り替える。

 要は、結局撃たなかった拳銃の手入れをしよう、と思い立った訳だ。すぐさま左肩に吊るされたホルスターに右手を伸ばし、モノをテーブルに優しく置く。もちろん弾倉は抜き取り、薬室に弾が入っていないか数度遊底を後退させて確認し、通常分解を始めた。

 それから十数分ほど、簡単な整備を終わらせたところで、また寝室へ続く扉が開く、見れば鈴はいつの間にかソファに横たわって穏やかに寝息を立てており、アリスが出てきたのだとわかった。

「終わったのか?」

「やっと」そう答えるアリスはさっき持っていった紙コップをゴミ箱に放り、コの字に置かれたソファ、俺から見れば右手側のデスクと窓がある方に腰かけた。

「隠し事、ないか?」

 真鍮の輝き、弾倉を挿入してホルスターへ、同時一息吐いた彼女へ問いかけた。

「……ない」

 俺の口調は穏やかではなかったろう、眉間に寄せた皺が証拠であり、アリスの否定も予想通りだった。

「なら今一度聞こう、二年前の話だ」

「あの時がなに?」

「俺が撃たれ、和懇が倒れ、お前はどうやってあの場から逃げた?」

 蘇る記憶、今や夢か現かすらわからない記憶の一つを思い出し、

「だから他の……」何かを隠すようそこまで続けた彼女の言葉を「なぜ隠し続ける?」と遮り、俺は昨日相手にしたあの男について話す。

「昨日のあの男を見て確信した。俺が二年前見たあの景色は、夢でもなんでもない、確かに現実で起こったことだと」

 出血はしていないが、あの男の拳とぶつかってできた額の傷が、僅かに疼く。

 そしてあの目だ――――あの、血が透けた赤とは違う、もっと鮮やかで蛍光色で、熱く燃え滾る溶岩にすら思えるあれが脳裏を焼く。

 しかも似ているのだ。彼女の……アリスの目に宿る執着か、あるいは懇願に。

 目を瞑り、静かに俺の言葉に耳を傾ける彼女へ、問う。

「俺を撃った男も、あんたも、昨日の男も、全員同じ瞳をしていた。それは……なぜだ」

――ここまで確信している俺に対して、何かしら隠し事をしているアリスから、何かアクションがあると思っていた。動揺か、怒りか、それは人それぞれだろうが彼女は、瞼を開くと俺の予想のどれも違う反応を示した。

「私がなぜここにいるか話したはず」

 この仕事の初日、彼女と再会した時言っていた言葉を「俺と和懇への謝罪、だったな」繰り返す。

 同時に、アリスの雰囲気が仄暗い水底に沈み、頭上に揺らぐ水面を恨めしく思うものへ変わる。

「自己中心的な贖罪、本当はやる必要なんかない、でも私は君を雇ってる、君に対して贖罪と同情を持ったから」

 口調は優しい、聞き分けのない子供へ言い聞かせる母親のようである。だが、その視線や雰囲気は、そんなものではない。

 明確な拒絶だ。脅しにも似た言葉も。

 自身より年下とは思えない空気は、これまでの人生で出会ったどの人物とも違う。大人びていて、いや過ぎていて、恐ろしいとすら思う。

 俺も修羅場は潜ってきた。生死の境目を彷徨った。だけれど、彼女から感じるこれは、それを優に超えているのだとわからされる。この平和な国で育った俺には想像だにできない出来事を、経験してきているのだと。

――――しかし、しかしだ。裏を返せばそれらその態度は、俺が問うた質問を肯定している。認めている。

 二年前、薄れゆく意識の中で見たあの景色は……決して夢でも幻覚でもなかったのだ。

「君が今何をどう思おうが、どうでもいいことだ。一つ伝えておきたいが、もし危機感を持ったのであれば、私は約束を反故にはしないから、そこは安心してほしい」

 そう言った彼女の表情はふっと、掴もうと思っても掴めない煙のようないつもの表情に戻っていた。

「……そうか、そりゃ安心した」

 強張る体、凭れ掛かるソファ、軋むフレームが額に浮かぶ冷や汗を流した。彼女が言う通り本当に嘘を吐かないのなら、その時が来るまで待つのがいいかもしれない。

 その時まで静かに――――だが大人しく待つつもりはない、機会があれば、だが。

――――話が落ち着くと、テレビも点いていないこともあって、外からの音が良く家の中に入ってくる。

 雨音や車のエンジン音はもちろん、水溜まりにタイヤが潜る音、人が階段を上る音……階段を? 

「……誰かきた」

 聞き違いなどではない、確かに階段を一段、また一段と踏板を叩く小気味良い音、それは俺の予想だとこのオフィスビルの錆び付いた階段を上る足音だ。

 即座に右手で拳銃を引き抜き、左手で遊底を後退、撃鉄を起こし薬室へ初弾を送り込み、唯一の入口である玄関扉の内側から見て左横にあるスイッチで室内の電灯を消灯させ、俺自身は右横の壁に静かに張り付いた。

「寝室に、鈴も頼む」

 外からの足音に気づいていなかったらしいアリスは、少し呆然としていたが俺の言葉に「鈴さん、起きてください」ソファで横になって寝ていた鈴を小声で起こし、連れて寝室へ引っ込んでくれる。

 それを確認した後、意識を扉越しの外へ向ければ、変わらず足音は外から聞こえてきている。

 居留守のため息を殺し潜むが、相手が一体誰なのか、幾度考えても思い当たる節がなかった。例えば出前や通販にしろ、食材なんかは初日に買い溜めしてることもあって一週間弱ほどは持つはずで、その他の物もとっくに買い終えている。

 ならこの足音は一体誰だ? この劣化に劣化を重ねた小さなオフィスビルの二階に用があるのは、誰だ? 

 答えは一つ――――ただの間違いでなければ――――意識を思考に向けていると、ピタリと足音が止んだ。

 気配はわからないが、最後に鳴っていた場所からして恐らく……二階の踊り場だ。この扉の、すぐ前である。

 たったコンクリートの壁と鉄扉一つの先に、いる。

「!」

 何秒か、何分か、緊張と沈黙に感覚を研ぎ澄ませていると、カチャカチャ、鍵穴に何かを差し込まれる音がする。ピッキングだ。しかもそれほど時間もかからずに鍵の開閉音が聞こえ……

「誰だッ!」

 いや誰にせよ、ピッキングする相手なぞ敵に変わりなく、念の為にその人物が一歩室内に踏み入ったのを確認して、死角から飛び出した。

 もし空き巣だったとすれば銃を持った相手の家に入り込もうとしたのが運の尽き……けれど視界に飛び込んできた相手の姿に、俺は一瞬躊躇してしまった。

「……!」

――――理由は単純、俺はこの男と以前対峙したことがあった。

 忘れられるはずがない、夏の日本ではあまりに不審な分厚いコート、白髪頭の見た目と矛盾した体格の良さ、身長も日本人離れした二メートル弱。

 その上かつてもそうだったが、一メートル程度の距離でまじまじと見るこの男の目は、アリスとは違い執着というよりも物悲しげで、往生しているようで、そして紅く光っていた。

――――二年前、あの路地裏で襲撃してきた男――――

 粟立つ全身とは打って変わって、胸の奥底に眠っていた間欠泉が噴き上がる。

 唐突な邂逅に蘇る記憶に凍り付いていた指先が復讐心によって溶かされ、引き金にかけていた人差し指を引けと囁く。それどころか記憶の中で事切れた和懇の姿が映し出されれば、動くはずのない彼女の首が奇妙に動き俺を恨めしげに見る。

 走馬灯に近いそれら、俺は一瞬瞬き……かちりと引いた。

 だが、銃声が鳴ることも硝煙が噴き出ることもなかった。

「!?」

 驚き、目を見開く。

 まるで二年前のあの時と同じだった。

 対応しきれないほどの速度で伸ばされた両腕、俺の右手と拳銃に触れる両手――男の革手袋に包まれた手が、的確に、撃鉄を落とせないよう、あるいは引き金を引ききれないよう、遊底が後退しないよう――押さえ込んでいたのだ。

 それどころか、右手のみで持っていたのが災いし、上から包むように撃鉄と遊底を押さえ込んでいた男の右手が下方向へ、引き金を引ききれないように差し込まれた左の小指と手のひらが上方向へそれぞれ力を向かわせ、強制的に銃口を天井に向けさせられる。

 これは、熟達した武装解除……抵抗しようとするが虚しく、とどめを刺すような体の芯を捉えた蹴りが男から放たれ、

「っ」

 あえなく腹部の激痛と共に床へくず折れた。

「良い銃だ」

「ぇほっ、げほっ」

 時間が一秒経つにつれて酷くなる痛みと猛烈な熱、静電気が放電するかの如く意識が点滅する中、男の言葉と俺から奪ったP229の動作確認をする音だけは聞こえ続けるが、俺に何かを答える気力はなかった。

 ひたすらに悶え、奪われた銃によって死を待つしかない。

(時間は……稼げたか……?)

 この男の目的は、二年前と同じ……どこから情報が漏れたかはわからないが、それでもアリスと鈴を逃がすだけの時間は稼げたはずだ。

「田中アリス、いるだろう」

 予想通り、男は彼女の名を口にした。だがもうここにはいないはず……そう心の中で嘲笑っていると、足音が一つ聞こえてくる。

 男は動いていない、しかも音の発生源は俺の右後ろ……寝室がある場所からだ。

「ッ!?」

 微かに和らいだ痛み、顔も歪み酷いものだったろうが膝立ちで満身創痍だった体を捻り、その足音――アリスの方を向く。

「……ええ」

 アリスは彼女の愛銃、サクラを構えて、答えた。

「……確認した」俺は確認できなかったが、インカムか何かを付けているのだろう、流暢な英語で虚空へ何かを告げ、続けてアリスへ「日本を出ていたと聞いていたが……なぜ戻ってきた?」そう問うた。

「チッ……それを話して何になる」

 アリスは男の様子、言えば銃口を向けられていながらも、機械のように冷静な男に対して気に入らないのか舌打ちをする、傍に俺のデスクがある中で男を正面に捉えると立ち止まった。

「目的は俺か?」続く男の問いかけに、アリスが自嘲気味に鼻で笑う「ふん、こんな体にしたお前を……恨んでいないとでも?」

 アリスの声に、熱がこもっている。いつもの彼女よりも遥かに感情的で、明確な嫌悪が感じられる。あの病院で聞いた「撃て」という声よりも強い。

「それで……ここに来た理由を聞かせてくれる?」

 目線も銃口も逸らさず、瞳孔を開き宿敵を見るような目のアリスが、今度は男へ問いかけた。人差し指は引き金へかけられ続けている。

「忠告だ。俺達の邪魔をするな」

「邪魔、ね」

 アリスは男の言葉に薄ら笑いを浮かべ、それを目の当たりした男は軽く溜息を吐いたように見えた。

「病院でのことだ。わかっているだろう、俺には……俺たちにはあの子供が必要なんだ。お前もそうだろう? それにお前らの邪魔をするつもりはもうない。そもそも我々は除隊した」

 感情はわからない、切実で必死な様子なのはわかるが、男の言葉は無機質で夜闇の不可解な肌を突く空気感で、感情を失くしているように言った。

 二人の会話は俺には一体何のことだか見当もつかない。だがアリスの感情が昂っているのだけは、見えていた。隠しようのない怒りを、顔に浮かべているのだ。

 そしてそれは、爆発する。

「貴様らの横暴さを知っている私が、信じれると思うか……!? 何人が死んだ!? 何人の人生が狂った!?」

 回転式拳銃、彼女が持つ拳銃は一切ブレていない。どれだけ感情的になろうが、その銃口は男へ向いたまま、けれど叫ばれる言葉は、今までの彼女から感じていた鵺的人物像とは違う、心の奥底からの叫びのように聞こえた。

 何を隠しているのか、何を隠し続けているのか、コートの男が、言う。

「……それで構わん。俺たちは呪縛から逃れたいだけだ、神などいないこの地獄から……」

 言い終わると同時に、真夏にあまりに相応しくないコートが翻った……男が踵を返したのだ。

「! 動くな!」

 制止するアリスの声、けれど、

「わかっているはずだ。俺も田中アリス、お前も――人が信じる神がいないこの世界が、ただの虚像でしかないことに――俺はそこから、逃げ出したくなったのだ。最後くらいは自由に、な」

――――同時にタイル張りの床を転がる殺意の塊、それは膝立ちでただ回復を待つしかなかった俺の、目前で止まる。

 全身が毛を毟られた鳥のように逆立つ。

 当然か、二年前殺しに来た男だ、今回忠告だけなはずがない。残された時間にして三秒から四秒程、俺は恐らく何が転がったのか見えてすらいないアリスを見て、覚悟する。

 その床を転がった物体……M67破片手榴弾の上へ覆い被さった。

 蹴ることができればまだなんとかなったろうが生憎膝立ちだ、手で持ち上げ振り抜いて投げる暇もない、もちろん穴もない。だとすれば最後の手段だ。

 正直こうしたところでアリスが助かる保障もないが、やらないよりはマシだろう。

「手榴弾!!」

 頭を低くしろ、残された時間で彼女にそういった意味で言えるのはそれだけだった――――――――二年前を追体験するような現状に、目を強く瞑り今更恐怖などない死を迎え入れようとしたが、何も起こらない。瞑っているので視界も暗いままだ。

 それとも死んだことにすら気づけないくらい一瞬だったのだろうか? もし仮にそうだとすれば、この固く閉じた瞼を開けたら閻魔大王様が立っていたりするのだろうか? はたまた成仏できずに永遠と現世を彷徨う幽霊にだったりなっているのか? 

 答えは脂汗が滲む額と、腹部と床の間をゴロッと当たる不快な感覚だった。

「なんだ……?」

 頭を上げ、即座に男の存在を確認すると、見えない。俺から奪った拳銃を床に残し、あの巨体を霧散させたかの如く、消していた。

「爆発、は?」

 俺の最低限の言葉に、銃を持ちながら頭を両手で守るように構え、しゃがみ込んでいたアリスが、衝撃に備えて開けていた口をパクパクと動かした。

 けれど俺もその答えを持っておらず、不発か? とも思い腹に当たるその物体を手に取って、確認してみる。

 見たことのある丸い形状、自衛隊で採用されているお下がり供与品の後継として米軍で採用された、通称アップルで有名なM67破片手榴弾であるが、持った感じ明らかに軽く、その違和感を確かめるために薄暗闇ながら間近で見れば、ダミーなのが一目瞭然であった。

「くそっ、やられた!」

 ご丁寧に安全ピンまで傍に捨てやがって。

 ただそこで思いついたのが、奴の本当の目的について。逃走用のダミー手榴弾ならばそれでいいが、もしそれ以外の目的があるとすれば、

「鈴、無事か!!」

 現時点で最悪なシナリオは、即ち鈴を奪われることである。だから声を張り上げ、蹴られたことすら忘れて寝室へ向かおうと立ち上がるものの、

「だ、だいじょぶだよー……」

 寝室にいて見えていなかったのが幸いして、多少状況を飲み込めておらず呆然としてはいるが、混乱はしていない鈴の声に安堵する。

 なら次に確認すべきは、周囲の安全確認だ。

 玄関である鉄扉は開いたままで、雨を煽りながら吹き込んでくる風を俺は睨み、男が立っていた場所に置かれたP229をさっと拾い上げる。すぐに薬室内に弾が装填されているかを確認後、敵が死角に隠れていないか玄関をすぐ出た階段の踊り場の左右を見る。

 そこでふとある音に気づく。それは階段を降りた先から、水溜まりを歩く音が聞こえてくるのだ。

 確かに誰かがいることを確信し、改めて部屋の奥にいる二人へ誰かが来ていることを小声で告げる。

 ただその足音には若干の違和感があった。もしあの男の仲間であれば、こんな風に悠長に歩いてくる訳がない。けれど襲撃された直後だ、そう簡単に銃口を下げる訳にもいかない。

 敵でなければそれでいい。

 雨よけの合間をたまたま抜けてぽつぽつとスーツを濡らす雨粒を感じつつ、夏特有の湿って冷えた空気に、背筋を震わせる。

 その足音が外階段を上るため、踏板へ乗ったと同時に、上から見下ろすよう身を躍らせた。

「動くなッ!」

 けれど、照星、照門越しのその人物を認めた瞬間、俺は銃口を下げた。

 当然だ。今し方階段の一段目の踏板に右足を乗せた人物は、敵ではなかったのだ。

 なぜ敵ではないとわかったのか……黒い洋傘を差してガンケースを肩に担ぎ、ボーイッシュというに相応しいベリーショートで外仕事ゆえの茶髪、そして女性ながら下着が見えるのも厭わずタンクトップという薄着に、姉とは裏腹の控えめな胸部……だが女性だからではない。

「お、おう」

 俺の鬼気迫る声と顔に、酷く困惑した様子ではあるが傘を持ちながらパッと手を上げ、此方を向く姉よりも勝気そうな目元。

「命……?」

――――そこにいた人物は、荒魂和懇の妹、荒魂命だった。

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田中アリスは嘘を吐かない(仮) 宇佐見レー @usamimirennko

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