第3話『復帰』
翌日、午後の雨を予感させる入道雲が空高く、俺はリビングと化した元オフィス兼応接室で目を覚ました。
もちろん依頼者……田中アリスが本来俺が使っていた寝室を使っているので、古ぼけたソファで眠ったわけだ。
寝心地などいいものではないが、地面で寝るよりは遥かにマシである。
ふとスマホを見れば時刻は六時、設定していた目覚ましがその時丁度鳴り響き、解除する。数年前を思い出させる時間に、懐かしさを感じるが、見渡そうとも姿は見えない……すっかり息づく存在に、哀しみが輪郭をはっきりとさせ、強調してくる。
この心の傷を癒す為には、今やるべきことをやらなくてはならない。
――二年前からしまいっぱなしのクラス二の予備防弾ベスト、ケースに入れたままの警戒棒、夏物のワイシャツ、夏物の黒色のスーツを取り出して、スチームアイロンで皺を伸ばし、消臭スプレーを一回二回とかけておく。
二年前に着ていた物とは違う全く新しいスーツだが、買って以来使っていなかった代物だ。それでも暫く保管していたものだからカビのような木のような、とりあえず独特な匂いがする。
そして皺伸ばしなどなど、服が終わったらさっさとそれに着替え、下着の上に防弾ベストを着用し、その上にワイシャツを着る、更にその上にショルダーホルスターを身に着けた。次にP229をガラステーブルの上に出す。
訓練などでも彼女は使っていたので、それなりに使い込まれているものの、完全分解は少し前にしたばかり、通常分解も昨日したばかりで心配はないが、念のために検めておこう。
他に予備弾倉に弾を込めたり、色々していると時間はあっという間に過ぎていき、
「ふ、ぁ」
急ぎ布切れをカーテン代わりにした薄暗い寝室から、みしみしのそのそと、淑女とは思えない大欠伸をしながらアリスが出てきた。
「やっと起きたな。時間は……八時過ぎてるか」
どこにでもある壁掛け時計を見れば既に二時間以上の時間が過ぎていた。流石にゆったりしすぎたか、と思うが大体世にある店の開店時間は九時から十時だ。八時過ぎでも早いくらいである。
「色々買い込みに行くぞ」
銃の整備も終わり、予備弾倉と一緒にホルスターにしまいこんで、さあ行こう、そうして立ち上がった俺だったが、いつまで経ってもその寝ぐせだらけの白黒の髪と、口の端からよだれを垂らしたアリスは動かない。
何かと思ってみれば……船を漕いでいる。かくん、かくん、と。
「……」
確かに昨晩、夜遅くまで何かしていたようだが、結局豪華なモーニングコールだってある至れり尽くせりの高級ホテルに、なぜ泊まらなかったのか、甚だ疑問でしかない。
時刻は昼過ぎ、少し都心に近づいた高層ビルがちらほらと点在し、スーツ姿の男女が入り乱れるオフィス街の中心で、遅めの朝食をとっていた。
「まったく」
とは言え、何かが気に入らないらしいアリスは、カフェの軽食、三色サンドイッチという中身がそれぞれ三種類で分かれているその二つ目を口に頬張りながら、俺を睨んでいるのだ。
まるで俺に文句があるような目つきだが、そんな目つきをされるようなことをした覚えがない。
「……なんだ」
なので聞いてみれば、
「銃を所持してる者の入店を断るとは! 差別だ差別!」
と、怒っている。一応口の中身を飲み込んでから憤慨してる辺り、育ちの良さが見えるが、俺は少し答えに詰まってしまう。一拍置き、漸く絞り出したものは、
「仕方ない」
そんなもの。
――――けれどアリスの怒りもわからない話じゃない。
今日、彼女の生活必需品の購入のため、外出してる訳で、ワンピースに服や下着、薬局、スーパー、家具屋と色々あったので時間がかかってしまい、外出ついでに朝昼兼用の食事をしようと近場で店を探したのだが、幾つかの店に入店そのものを断られてしまったのだ。
理由は彼女が怒っている通り、俺が銃所持者……言えば武装警備員という理由で。けれど、仕方ない。元警察官であろうが、元自衛官であろうが、銃に関して厳しい日本で、一般人に近い存在が銃を持つなど、そう簡単に受け入れられるような状況ではない。
アメリカのように一般人が持つ銃に対し緩くなった訳ではないが、治安を懸念する者達もいる。未知を恐れる者もいる。仕事を奪われることを心配する者もいる。それは全て正しいことで、それぞれ人が考え導いた答えだ。
当事者の俺は、否定できる立場にない。
「で? 本当に食べないの?」
三種類のうちの最後、それを手に取って綺麗なカフェテリアで、じゅるりと汚い音を鳴らす。
その問いに、俺は武装警備員用戦闘食をポケットから覗かせてみせた。
「……おにぎり?」
「コンビニのだ。こういったところで襲われるとも限らない、だから俺達は対象の側から離れず、何かあっても立っていれば対応できるので立ったままでなきゃいけない」
車道を挟む歩道、そしてビル風に吹かれ二つの道を眺められる、歩道よりも少し奥まったところに作られたカフェテリア、店の中だと余計に目立つので外を選んだのだが、それでも彼女の座る席の隣で立ったままというのは、まあ奇異な目で見られる。
仕事なので仕方ないが。
「へぇ」
興味の失せた反応……明らかに手元のカツサンドへ意識、食欲が勝っている。好きな物は、最後まで残すらしい彼女はその肉厚なカツサンドを恍惚とした表情で食べ始め、時折炭酸飲料を喉をゴクリと鳴らして飲む。
そうしてあっという間に完食したアリスは、上品に口元を紙ナフキンで拭きつつ会計票を手にレジへ向かった。
俺はそれについていきながら他の客へ視線を流し、怪しい人物がいないかを確認する。
車両に戻る間、一時たりとも気を抜かずに、まあ無いとは思うが下部にトラップが仕掛けられてないか、手で弄り確認して、漸くアリスを後部座席へ案内した。
「さて、次の目的地は?」
運転席に座ると同時、どこに向かうのかを聞くためにルームミラーで後部座席へ視線を向けた。店によって違う袋の束の傍ら、今日初めての食事に満足いったアリスの表情はほわほわと温かく、ゆったりとしているが、俺の問いに気付くと、
「帰りましょう。これだけあれば生活するのに困らないはず」
凛とした表情に早変わり、頷きながらそう答えてくれた。
アクセルペダルを踏み込み、車を発進させて数分ほど、ルームミラーで後部座席を見ればどこかで見たことのある風景が俺の目に映った。
窓越しに流れる景色をぼうっとそこに意識がないように眺めるアリス、既視感に一瞬の思考を挟むけれど、
「気になってたんだけど」
そんな問いかけに、中断させられてしまった。
「問題でもあったか?」
「いえ、そんな大したことじゃなくて。この、車についてよ」
ぱちり瞬き、前を見て再度後部の彼女へ。
「あぁ、そうだ」
アリスもまた、皆まで言う必要はないと感じたのだろう、もちろん俺は彼女の言いたいことがわかってしまう。この四人から五人乗りが想定されている、元が高級車の防弾車両について。
だから俺は肯定しておく。その通りだと。
「そう、やっぱりあの時の」
座りっぱなしで少し疲れたか、座ったまま背中を伸ばした彼女は、全て言うことはなかったが納得した様子で、がその表情は夏空に似合わぬもの、言葉にすれば夕立のように夏の暑さを冷ますものというより、長く淡白に振り続ける梅雨のように湿っぽかった。
ただ一つ、俺はそんな彼女が気に入らなかった。まるで自分のせいだと言わんばかりのその、表情が。
「……勘違いするなよ、これは俺の覚悟だ。そりゃあんたを呪ったことだってあったが、この仕事は、そういうもんでしかない」
彼女のためじゃない。俺が、俺だけが感じるべき感情を、彼女も感じているのがどこか、気に食わない。
「だから、彼女の背を追うの?」
「追う? 違う。自責を忘れないためさ」
――――俺に力が無かった。だから守れなかった。
恋し憧れ、彼女の背を追って近くにいようと訓練し続けたのに、いつしか追う背中は霧散し、ただ自分だけが残された――――それが、許せない。
きっと叶わない。父の時と同じように、この願いは。
「そう……」
アリスからの問いかけだと言うのに、当の本人からは素っ気ない答えが返ってきた。
心の内で、なんだよ、そう悪態をつき後部座席を映すルームミラーをまた見れば、彼女の表情は、子供が絵の具の色を慎重に混ぜながらも思った通りの色が作れない、そんな複雑そうなものになっていた。
その心情を俺は上手く読み取れず、ただ内心でそれを問い詰めていた。答えなど返ってこないとわかっているのに。
暫しの沈黙、車のエアコンがエンジンと共に動くような音だけの車内、液晶に映る二十五度という数字を伴って爽やかな涼風が流れてくれば、それがアリスの前髪を揺らす。
外にやっていた視線はいつの間にか、右手に持たれたスマホに移動しており、熱心に何かをしている。
彼女がそうであるように、俺も特に沈黙に焦燥を感じない。結局家に着くまでの間、一言も喋る事はなかった。
唯一、大量の荷物を運び込んだ時に「ありがとう」と言われたくらいか。
後は無言で買ってきたカーテンを着けてやり、外からは完全に見えないようになった。一つ残念なことがあるとすれば、日中ですら日光を拝めなくなったこと。この辺りだとオフィスビルと言っても低層階のものしかなく、ここを覗き見れる場所など限られてる。
だが、まあ念のためというやつだ。
アリスはアリスでスマホに目を向けたまま寝室に籠ってしまった。きっと誰かとやり取りか、あるいは今後の予定でも纏めているんだろう。
「ふぅ」
幾ら夏用と言えどスーツの上着は暑い。額にできた汗の粒を拭って、丁寧にハンガーへかけてやり、皺ができにくいよう壁の取っ掛かりにそのまま引っ掛ける。
防弾ベストを下に着ているが、ワイシャツとホルスターが露出されている状態は、直にエアコンの風が当たるので、通気性は最悪でも隙間から流れ込んでくる風に心地よさを感じる。
さて座ろう、と思ったところで目に入るカーテン越しの日の光、それは昼少し過ぎとは言え思った以上に暗く、しかも外が良く晴れているのもあってか影が際立つ。
「あー、やっとか……」
仕方なく電灯のスイッチを押してからソファにどかと座り、体中に入っていた力を抜くため、大きく息を吐いて脱力する。やっと、一息つけた。
静まった部屋の中、ぼーっとしていればエアコンから吐き出される空気の塊、強に設定していることもあって、道路を走る車のエンジン音に重なって風の音がする。
――それだけでなく、自分の心臓が鼓動する音が耳、よりかは蝸牛本体に触れて鳴ってるような感じで、動脈、静脈、毛細血管、鼓動する度に血液が循環するのがわかった。
暫し沈黙に安らぎを感じ、潜める必要もないのに息を潜めていると、
「黒佐藤恭介!!」
寝室で何かをしていたはずのアリスが、壊れんばかりに扉を開け放った。
その右手には今し方まで誰かと通話をしていたであろう痕跡の残る、彼女のスマホが握られていて……
「詳細は後! 車出して!」
凛とした表情を険しく、僅かに吊り上がった目を更に吊り上げ、白黒の髪を振り乱しながら言った。
「――――それで、なんで大学病院に?」
言われるがままに防弾車両に乗り込み、発進させたところでアリスから告げられた目的地に、俺はただただ湧き上がる疑問を投げかけた。
場所としては遠いものの、特に向かうのに難しい訳もなく、気がかりなのは夕方に差し掛かる時間帯は渋滞が多くなることくらい、だが守るべき対象であるアリスの指示とは言え、一見病院に行くような様子には見えない。
だから部屋から飛び出た時に持っていたスマホが関係しているのだろうが……とそこまで考えついたところで、今回は景色を眺めずまっすぐ姿勢を正したアリスが答えてくれる。
「まず第一に、約束をした」
「約束?」
聞き返すと、アリスは頷く。
「そう、貴方を紹介する代わりに個人的なお願いをいつか一つだけ、聞いてもらいたい、と」続いて多少驚いたように肩を竦め「まさかこんな早いとはね」
「その約束を交わした奴と関係あるみたいだな」
「ご名答、詳細は話したよね? 償いとしてあなたを指名したって。これでも前回のことがあるから日本政府には大分反対されたんだ」
……前回、和懇が言っていたようにこの仕事は国が絡んでる。そして彼女は国が絡むほどの人物だ。
結局、前はなんとか守り切れたが、今回は俺一人しかいない。政府としてもちゃんとした警備をしたいところだろう……とりあえず纏めれば、アリスがそれを拒否してここにいる以上、今の話の俺を紹介した人物というのは……
頭に浮かぶ、坊主頭で警察官という一人の人物――
「……なるほどな、高村さんか」俺が昨日もその場にいた人物の名を呟くと、アリスが驚いた表情を浮かべた。まあ確かに遠回しな語り口調だったからな。けれどそこまで驚くこともないと思うが。
「それで、高村さんと病院にどんな関係がある?」
付き合いは長いがパッと思い浮かべてもあの屈強な肉体を持つ高村さんと病院が結びつかず、もったいぶらず答えるようもどかしさに苛立つ感情を隠さずに言ってみる。
「なかなか鋭いけれど、そこが結びつかないんなら落第ね」
……大して効果はないらしい。ルームミラー越しに見なくともわかる、落胆の表情。
「そんなことはどうでもいい。高村さんとどんな関係があるんだよ」
「そう難しく考えるなって。先日君も口にしていたさ」
先日――昨日の話だ。それに口にしていた……? となれば限られる。
あのガラステーブルを囲んでの話し合いを、運転をしつつ思い出せば、一つピンときた。それは、
「鈴ちゃんのことか……!?」
動揺が、握るハンドルを伝う。タイヤが甲高い音を鳴らし、揺れる車内で慌ててアリスが続けた。
「おち、落ちついて! 何か巻き込まれたとかじゃなくて、ただ通院してるだけって話だから!」
同じ事件で失った者同士、俺は高村さんとその娘である鈴ちゃんと家族同然の付き合いをしてきた――――言わば妹のような存在。それなりに大きな大学病院の名と重なれば、嫌な想像もしてしまう。
故に……ハンドル操作を誤りかけた。
まだ時間的に車が少ないこともあり、高速の走行車線と追い越し車線を隔てる白色の中央線を蛇行するだけで済んで、本当に良かった。
けれど一応彼女は守る対象――――それを危険に晒したことに変わりはなく、急なハンドル操作に驚くアリスへ、謝罪する。
「す、すまん……」
「いや、わかってくれたのならよかったわ……」
後部をちらと振り返れば、アリスの顔が青白くいつもの凛とした雰囲気はすっかり消え去り怯えの見える表情になっていて……そんな猫に追い込まれた死を覚悟する鼠のような様子に、運転手として武装警備員として、心の内で失格だと自らを責める。
だが最も大切なのは自身を責め続けるよりも、次をどうするかだ――――過る記憶に、次など無い場合もある、そう喉で転がすが。
「こ、こほん、落ちついて聞いてくれたまえよ?」
俺は大きく深呼吸を挟み、平静を取り戻しつつあるアリスの咳払いに、背後へ耳を傾けた。話の続きだ。
「念のためもう一度、通院してるとのことで……それで高村警部曰く、ストーカーがいるとのこと」
「ストーカー?」
妹同然の高村さんの娘、鈴ちゃんの当時の姿を浮かべる。確かに可愛らしい子であった。高村さん似かと言えばそうでもないが、気の強さが親子だと思わせる雰囲気はあった。
それでも今は高校生、大人に近づきつつあるのだからそう言った輩が出てもおかしくない。
「えぇ、高村警部が聞いたお子さんの話だと、付き纏われてる、らしい」
……そこまでの話を聞き、それでも一つわからないことがあった。簡単だ、アリスが出てくる必要がないのだ。
言わば、高村さん家族のごたごたで、出ればいいのは警察官である高村さんでしかない――そんな俺の、難しそうに寄せた眉をルームミラー越しに見ていたアリスが、その意図を汲み取って続ける。
「ここで先程きた電話に戻る訳だ、どうやら今日は迎えに行けないらしく、本来の役割を黒佐藤さん、貴方に頼みたかった、ということだ」
「! ふむ、その俺が仕事中であんたにか」
うんうん、薄々感じる二年前とはまるで違う雰囲気を纏うアリスが、腕を組み肯定のために頷いている。
「そういうことで、その大学病院を目指してもらってる。黒佐藤さん、貴方を紹介してもらった手前、断ることもできないから」
「……なるほどな」
……一拍の間、彼女の思惑を考え、質問をしてみようとも思ったが……詮索はやめておこう。
彼女がどういう人物かがまるで掴めない今、下手に気分を害して仕事の報酬として貰えるはずの情報に、嘘を混ぜられたら俺じゃ判断できない。本当のことを話していても、確かめようがないのだ。
なら、ここで隠している本心を聞き出すような問いかけはしないのが正解だ。
ただ事実なのは、自身が狙われてる立場でありながら、その危険を承知で高村さんの願いを引き受けたこと、それが本心か否か……
そんなことを考えていると、ふとあることを思い出した。
「あぁそうだ」
「なんだね黒佐藤くん」
「……いや、な。二年前のことで聞きたいことがあった」
偉そうな、事実雇い主であるが、そんなころころと変わる口調をいちいち相手にする訳にもいかず、俺は気にせず続けた。
「今だから聞く。俺が見たのは夢だったのかもしれん。だけどな、二年前のあの時、どうやって俺を連れて逃げた?」
――――ずっと考えていた。あの時、最初に倒れた俺をどうやって連れて、逃げたのか。だが彼女の答えは淡白なもので、
「あの時は……銃声を聞きつけた別の武装警備員達が来てくれた」
一呼吸置くには十分な間は、記憶を弄るものではない。どちらかと言えばその場しのぎの嘘のように思えた。
確信はない――――なんとなく、ただなんとなく、アリスの視線が窓の外、高速の防音壁の外側へ向けられていたからだ。
意味などないかもしれないけれど、俺にはそう……思えた。
「じゃああんたのあの白い髪、紅い目はなんだ?」
記憶は思い出せば思い出すほどにどこかが欠けていく。まさにジグソーパズルのようなピースが一つ一つ無くなっていくのだ。最後にはうろ覚えとなりどんなものだったかすら思い出せなくなる。
もし、俺が最後に見たあの光景が、それだったとすれば、現実ではない俺の頭が補完して作り上げた何かでしかない。それならそれでいい、だけどもしそうでなく、あれが現実で――――あの、異様な姿が作り出す何かで敵を、あの男を追い払ったのだとすれば……
「――いや、なんでもない。多分何かと勘違いしてる」
その時見た彼女を、俺は忘れられないだろう。
鏡越しに僅かに合った視線……髪色や瞳の色が突如として変わる訳がない、荒唐無稽の話。
田中アリスは、それをじっと聞いていた。横目でこちらに視線を送って。
時刻は十六時を少し過ぎ、ミンミンゼミに混じって徐々にヒグラシの声が目立ってくる頃合い。
大学病院だけあって駐車場がヘタなデパートよりも多く大きい敷地内、まだ外来診療の受付時間内ということもあり、通院している人達の様々な車種の車両が停められた駐車場の、片隅に防弾車両を停車させた。
距離にして百メートルほど、一応雇い主であるアリスへ顔を向け、
「近くの方がいいか?」
「いや、私たちは医者にかかりにきた訳じゃない」
とのことで、まあその通り俺達はここに用事はあれど患者ではない。だから邪魔にならないよう隅にした訳だ。
「先に俺が出る」
数年前叩き込んだマニュアル通り、先に武装警備員である俺が外に出て、病院までの動線を確認しておく。そこからどこに気を付けるべきかを考え、恐らく最善であろう案を纏めたらやっと後部座席側の扉を開ける。
「問題ない。先導する」
アリスの盾になるよう前に立ち、最短距離を進む。もちろん他の車両から何かおかしな動きをする人物がいないか注意をしながら。
その時、蒸し暑さも相まって緊張の糸がピンと張り詰めた瞬間――アリスを連れた俺、周囲を無数の車に囲まれ、狭い通路と化したこの状況が、二年前の記憶を弾丸として俺の脳を掠め、髄液が沸騰した。
トラウマに近いそれは、次に死にゆく彼女の記憶を傷とするよう胸の奥底を抉る。
――凍えるような汗が止まらず、けれど辛うじて武装警備員として染み付いた習性と人としての後悔が、集中力を続かせる。同じことは起こさせない、そんな……気合にも似た感情が強く、湧く。
だからこそか、違和感に気づく――――ひたひたと背筋を這う嫌な予感、そちらになんとなしに視線を向ければ、こちらを車内から窺う、一人の人物に。
なんでもない、若者――いいや、若者と言っても俺よりも年上、見た目で言えば三十代から四十代前半程度の男、こちらを窺っている以外、きっと誰かの送迎で来ているようにしか見えない人物。
俺は汗を拭い、後ろを歩くアリスへ目線を送り、
「……? って凄い汗だ!?」
周囲を見回してる訳でもなく、ただ俺の後ろをついて歩く彼女は、俺の汗だくの姿に小首を傾げるだけで、その人物に気づいていない。
ただここで気づかれる訳にもいかない。俺は今日買ってきた替えのハンカチをポケットから半分ほど出したアリスへ、
「……気にしなくていい」
そう断った。もちろん袖で拭う訳じゃない、今し方取り出した緊急時には包帯にもなる白いハンカチで額を拭ったからだ……それに、心に傷があるなどと話せる訳がない。
それが例え償いだろうが、一定以上の信頼があるから選んでくれたのだ――報酬もそうだがこの仕事を失敗で終わらせるなど、二度はできない。
そう考え警戒はしていたけれど、どうやら敵意はなかったようで、あるいは車両が多くできなかったのか、特に襲われることもなく俺達二人は病院のロビーへと続く階段を、上り切っていた。
すると、本能を弄るような信号もスッと無くなり、汗も引いていく。
先程までの、二年前に撃たれた傷がぐちゃぐちゃに疼くことも無ければ、視界が記憶の断片に侵されることも無くなった。頭を貫くような衝撃も、見る影もなく――
「黒佐藤くん、さっきからどうした?」
無意識に鳩尾辺りを押さえていた俺に、怪訝な顔をしたアリスが、少し下から覗くように俺のことを見ていた。
俺は、すっと押さえていた手を下ろし、全てを隠すように、何もなかったように、
「……なんでもない、鈴ちゃんが……娘さんがどこにいるか受付に聞くとしよう」
そう言って俺は受付へと向かう、丁度隣では待合室も兼ねているロビー内で診察料の会計を順番に呼んでいるところであった。
隣が忙しなく動く中、その並びで初診などの受付をしている五十代くらいの女性が俺が近づくのに気づくと、慣れた口調で言った。
「初めてですか? 再診でしたらここに診察券と保険証を入れてください」
そう流れるよう手で指示されたのは窓口横に置かれた小ぶりの箱であった。
正面、言えば俺から見れば職員が言った通り診察券と保険証を入れられる小さく横長な口が開いており、通院してる患者などはここにさえ入れて、後は名簿に名前を書けば受付完了なのだろう。
しかし、今回俺達がここに来た目的は違う、それを説明しようとした時、
「いえ、実は……」
「高村鈴の親御さんに頼まれて来てまして、確認できます?」
横からですら見てわかる作り笑顔のアリスがかっさらっていった。
「――少々お待ちください」
五十代くらいの職員は特に慌てることもなく裏へ行ってしまう。その合間に、俺は溜息を吐く。なんで邪魔をするのか、そんな意味を込めて……あまり意味はなさそうだが。
「溜息を吐くと幸せが逃げる」
「……なんで邪魔した?」
「そりゃ君、一から説明しようとしてなかった?」
それはそうだろう。
「それはそうだろう、って顔をしてるね。そんな暇ないでしょう? 別に武装警備員であることの告知義務なんかもないんだし」
「…………報せておいて大したデメリットもないだろ」
事実、報せておくと何かがあった時に連携が取りやすくなるのだ。緊急時の混乱なども防げるので、メリットの方が大きい……そう考えての行動であったが、アリスはやれやれと首を振る。
「今朝、店から叩きだされたの覚えてるでしょ、もしここが反銃を掲げてたら君の仕事はどうなる?」
……ぐうの音も出ない。武装警備員としての唯一のデメリットだ。
受け入れるか、受け入れないかはその土地の所有者の判断に任される訳で、出ていけと言われれば出ていくしかない。
それが、現状である。
俺は仕方なく対応をアリスへ任せ、周囲の警戒を行うことにし、待合室も兼ねているロビー内を見回す。
パッと見、気になるような人物もおらず、強いて言葉にすれば普段どんな年齢層がこの病院を訪れるのかはわからないが、恐らく平日の夕方なのもあって、仕事終わりらしき作業着の男性や、OLっぽい女性などもちらほらとおり、他目立つのは年老いた男女が多い程度。
後、気になることと言えば日中光を取り入れるためだろう、病院の正面入口である自動ドア周辺は全面ガラス張りになっていて病院目前の駐車場を一望できる。
しかし、一望できようが万が一狙撃できるようなポジションはなさそうだ。
だとすれば……襲撃は確実に病院内からナイフや拳銃を持っての特攻になる――俺は左脇下にぶら下がったP229に弾を込めたかを頭の中で確認し、覚悟を決めた。いつどこから敵が現れても対応できるよう。
「どうやらもう待ってるらしい、って険しい顔してどうした?」
受付の職員とのやり取りを終えたアリスが、自分ではわからなかったが随分な顔をしていたらしく、呼びかけに振り返ると彼女は後ろに手を組み、少し体を斜めに傾けた状態で目線を僅かに下ろした上目遣いのような形で言った。
俺はそれを見て思わず目を見開き驚いてしまう。
意識をしてしまいそうな切れ長で凛々しい目、見つめてしまえば長く整った睫毛が、瞼と一緒にぱちくりと不思議そうに瞬き、目元が若干吊ってることもあって全体的に勝気そうな印象のある彼女の顔が、手に届く位置にある。
想像するまでもない、唇の柔さ、肌の温もり……捗る妄想を無理矢理に断ち切り、俺は体ごと視線を逸らした。
それぞれの専門医が仕事をする、病院の奥へ繋がる受付横の通路へと。
「……どこにいる」
「うん?」
「鈴はどこにいると?」
「……んん? まあ、どうやら渡り廊下にいるとか」
――答える間も俺の顔を覗こうとしてくる、しつこい奴だ。
「先、歩くぞ」
集中集中、失敗は許されない。
自身に活を入れ、散漫しつつある集中力を戻そうとする。具体的には先程の妄想を振り払いながら通路を進んだのだ、しかし乱された意識を直ぐに戻すことはできず、通路に入って数メートルほど先、左上側に男女兼用のトイレを示すマークを見つけるが、
ただ俺はそこで一つだけミスをしてしまう――――気づけなかったのだ。
死角となるトイレの中から、丁度用を足し終えた老人が出てきていることに……
「お、っと、大丈夫ですか!?」
声を上げた時には既に遅く、俺は左肩から出てきたご老人の右肩を押し飛ばしていた。同時鈍い音が鳴り、転倒させてしまった……と思ったが、
「っとと、いえいえお若い人こそ大丈夫ですか?」
俺と同じくらいの身長、六十代くらいの白髪頭で杖を手にした細身の男性はどうやら転倒どころかよろけてもおらず、俺と同じように白い眉を困らせていた。
「仕事中だしここは病院だ! もっと気を付けろ!」
「……迂闊でした。本当に申し訳ありません、お怪我などは……?」
後ろのアリスからも注意されながら、男性の方を改めて見てそう問いかける。だがどうやらなんにもないようで、ご老人はアリスへと目線を二度ほど流すも右肩をくるくると回して答えてくれた。
「ははは、尻に敷かれるタイプですね! それにこの老体でしたら大丈夫ですので、お気になさらず」
杖を片手に何かを勘違いしたままご老人は、ロビーの方である俺達が進んで来た通路を歩いていってしまった。まあ見た感じ、年齢不相応に元気そうな人だ、右肩だってぶつかりながらもあれだけ回して見せてくれたのだ。恐らくは本当に問題ないのだろう。
心の中で安堵の溜息を吐いて、ついでにどこか集中し切れていなかった気持ちがリセットされ、乱されていた緊張の糸を張り詰めなおせた。
気を取り直し、背後のアリスの様子も窺いながら先を行こうとしたら、
「まったく……」
俺を見る彼女は、俺が振り返ったのを確認すると呆れたように腕を組んだ。当然、それは俺の雇い主としての注意だ。
「……すまない」
「お相手に怪我がなくてよかった」
――溜息を吐いたアリスへ視線を向かわせると同時、杖をついたあの老人の後ろ姿が見えた。
そこで一つ感心したのは、杖をつくほどには足が悪いだろうに、ぶつかったのに倒れなかったあの体幹の凄さだ。
――――高村鈴、高村さんの娘であり俺にとって妹のような存在。それでも数年会っていないのは事実で、既に高校生になった彼女のことが、もし見てもわからなかったらどうしよう、そんな不安を抱き、通路のつきあたりまで歩いたところ……
病棟で囲まれた中庭とでも言うのだろうか、庭園、というには質素であるが、院長の趣味かあるいは患者のためか、色とりどりの花を咲かせた花壇とそれをゆったりと眺められるベンチが設置された庭を横断する、渡り廊下半ばに、いた。
「あの子だ」
アリスへ告げる言葉、彼女の視線も一人の少女へ向かっている――雰囲気は変わっているが、不安など吹き飛ばして彼女だとわかった。
通路のつきあたり、けれど行き止まりではない。外に出るため、あるいは渡り廊下を使って反対の病棟へ向かうためのガラス扉を、俺は開けた。
突然流れ込む生温い風に顔を顰め、後ろに続くアリスも渡り廊下へ出たのを確認し、そのガラス扉を閉た、不意に耳元で囁かれる。
「面識あるだろうからお先どうぞ」
そりゃそうか、遠慮なく渡り廊下を歩かせてもらおう。
高村鈴――彼女はまだこちらに気づいていない。スマホか何かに意識が行っているらしく、渡り廊下に置かれたベンチに座った彼女の頭は垂れ、手元を覗く。
結局手に持たれているのがスマホではなく、使い古された手帳だとわかる距離にまで近づき、そこで声をかけた。
「鈴ちゃん」
何年振りにそう呼んだだろう。彼女は俯かせていた顔をふっと上げ、周囲を見渡した。自分の名前を呼んだ声の主を探しているのだ。
少しして、ウェーブのかかった茶髪をサラリと垂らし、俺達がいる方向へ顔を向けた。
今と昔、髪は変われど健康的に日焼けした浅黒の肌は、活発であることの証明と言わんばかりで、そんなすっかり大人びた彼女と目が合う。
「――恭介にいちゃん?」
一瞬間の開いた呼び声は、俺が誰だったかを思い出す思考を挟んだからだろうな。不審がっていた表情がみるみるうちに変わり、にんまりと嬉しそうなものへ。
同時にすくっと立ち上がり、荷物はベンチに置いたまま綺麗なフォームで走り出し……
「久しぶりじゃんっ!」
外とは言え、病院の敷地内で冷や汗を掻きそうなほど大声でそう抱き着いてくる。
俺はそんな鈴を受け止めるものの、全力疾走からの飛び付きという中々の勢いは受け止めきれず、俺の鳩尾から肩甲骨の下辺りまでをぐるりと掴んだ彼女の両腕を掴み、受け流すよう半回転した。
だがその回転の最中、すぐ後ろにいたアリスが思い浮かび、まずい、と自分の中で精一杯のブレーキをかけるが……もう遅く、半回転し切った後の俺の視界には、冷たい眼差しのアリスが立っていた。
「あぶッ、おいっ、はしゃぐなっ」
どうやら何かを予感していた彼女は、数歩後ろに下がり、俺が声をかけるまでもなく避けていた。ただアリスの視線に気づいていない鈴は、俺の、防弾ベスト越しで痛いだろうに胸に顔を埋めたまま、よっぽど嬉しかったのか、
「だってだって! 会えてないなぁ、って時にあんなことになっちゃったから……!!」
――無邪気で純粋、高校二年生とは言え、まだ子供のような声色を上げた。
胸の中でこちらを見上げる鈴の瞳は嬉し泣きか少し潤み、茶色の……琥珀のような輝き、それを見てどこか申し訳なく思い、
「あぁ、まあ、無事だ。そう簡単に死なんさ」
そう言って微笑んで、鈴のこれまでの不安を消し去るよう、頭を撫でた。ごつごつとしていて触り心地など良くないが、それでも鈴は心地よさそうに目を細めてくれる。
暫しそんな状態が続き、こつん、誰かから背中を小突かれた。
「! とりあえず、話したいことがある……いいか?」
ここに来た本来の目的を思い出し、歳不相応に小動物のように離れようとしない鈴に、兄がいたらきっとこうだろう、そんな想像をしながら優しく言い聞かせる。
すると、鈴は俺ともう一人――田中アリスの方を一瞬見て「……話?」と小首を傾げた。
「そうだ。まず彼女の紹介からしよう、頼む」
俺が鈴から背後のアリスへ視線を変えた時「彼女……!?」とそこを復唱して驚いた様子の鈴。視線はまっすぐアリスへ注がれている、がどこか鋭い気がするぞ……?
そんなアリスはと言うと、渡り廊下の中心、なんだったら大学病院の中心で繰り広げられていた俺達二人の再会に、呆た様子で目頭を押さえていたところだった。
「病院では静かに……」
「……すまん」
二度の注意、次は無い。心の内でそう自分に言い聞かせて、謝っておく。鈴は、変わらずそのままだ。
「まあもういいです。はじめまして名刺は持ち合わせておりませんが、現在武装警備員として彼を雇っている、田中アリス、です」
「え? や、とい……?」
そう言って俺を見る鈴の顔は、鳩が豆鉄砲を食ったような顔、確かに驚くのも当然か、俺がまた武装警備員をやってるなぞ。
「色々あってな、高村さん……お父さんからの紹介もあってつい最近復帰したんだ」
「詳細は話せません、がではなぜここにいるのか、それについては私からお話します」
アリスが一歩進み俺と肩を並べた瞬間、渡り廊下の電灯が漏電の音を伴って点く、気づけば随分と暗くなった空は深縹色が強く、残光虚しい夜闇が広がっていた。同時、病棟の壁にぶつかった夜の冷たさの乗った風が、そっと抜けていく。
染め直しをしない不可思議な髪色をした彼女が髪が、ぱらぱらとその風に揺られて動き、次に瞬きを終えたのを合図に、話し始めた。
「本来、黒佐藤さんへの言伝でしたが、私が雇ってしまったので私が承った形になります。娘であるあなたが無事に家へ帰れるように」
「あ、あたしが無事に?」
……本人が一番理解しているはずが、鈴の反応はこちらからすれば大分予想外、というかありえない反応だった。
「そのはず、ですが……身に覚えは?」
聞き返すアリスも困惑気味に事実確認している。意味がわからないのだろう、当事者から相談を受けたその父親からの依頼なのに……俺はもう一度鈴へ問う。
「誰だかにストーカーされてるんじゃないのか?」
「ストーカー……別にされてないよ? そもそもされてたらおとうさ……父にどうにかしてもらってるし」
――至極当たり前な受け答え。けれどそれでも何が起きているのかがわからない。混乱する頭の中、最も最初に結びついた答えだけが、ぐるぐると回る。
どうやらそれはアリスも同じだったようで、
「『嘘』だ」
小さく自身の思考を整理するような呟きで代弁してくれる。
――――そして訪れる嫌な予感。
夏なのに体の奥底、芯が冷える感覚は、震えとなって現れる。そして掻いていた汗を巻き込むよう冷や汗がじっとりと体表面を覆い、ジジ、と蛍光灯からの音と共に、点滅する様子が不気味に映った。
だがしかし、この底冷えするような嫌な予感が事実だったとしても、俺が、俺単体が勝手に動くことはできない。どうするべきか視線をアリスへ向け、同時に彼女も答えが出たらしくこちらを見たところだった。
「高村さんがこんな嘘を吐く理由は、思いつく限り大体三つある。でもいずれにせよ私たちが選択を違えば最悪の結末を招くことになるかもしれない」
……声色低く切れ長の目を鋭利に、今日昨日の俺と話す時とは全く違う、もっと言えば二年前を思い出させる仏頂面のアリス。
どこか見た目とは違う雰囲気から変わった……いいや、これが彼女の、田中アリスの素であると予感させるその姿は、凛々しく美しい。
こんな緊急事態でなければ見惚れてしまうほどだった。けれどそんな余裕はない、瞬き気持ちを切り替える。
「身内贔屓と言われかねないが、高村さんが裏切るとは思えない。何かしら理由があると思う」
それには彼女も同感だったらしく、
「事前の調べでは模範的な警察官だったのは知ってる。だからここは、この子を保護する」
「なら鈴ちゃんを真ん中に、俺を先頭、あんたが最後尾……銃は持ってたよな?」
二年前の車内、あの時懐から出していた回転式拳銃、持って来ていない訳がないとの予想で声をかけ、アリスは左脇のそれに触れながら頷いた。
「えと、えぇ……?」
使い込まれた手帳、その他の女子高生らしい学校指定鞄などの荷物を困惑する鈴へさっさと持たせて、先程口にした陣形を取る。同時、俺は周囲へ視線を這わせながら、鈴と目線を合わせるよう膝を折った。
「詳しい話は後だ。まず病院から脱出する。俺から絶対離れるな」
状況は飲み込めていないが、それでも鈴は頷いてくれる。昔から聡明な子だったので、絶対と言ったことは守ってくれる。
アリスもいるし安心して背中を預けられる――立ち上がり、俺も左脇の拳銃を右手で触れ、いつでも取り出せるようボタンを外し、いつ何が起きても冷静でいれるように覚悟を決めた。
そこからは早かった。
まず渡り廊下だが来た道を戻り、建物内部に入る。中庭からも見えていたが、時折廊下を歩く看護師や医師らしき人物と擦れ違いつつ、受付と待合室になっているロビーへ歩いていく。
途中老人とぶつかったトイレの前も警戒しながら通ったが、人の気配はなく、難なく通れた。
そのまま三人で通路を歩くこと少し、ロビーまで来れてしまう。ただ、問題はここからだ。
ロビーは受付と待合室を兼ねているのだから、当然人の往来は絶え間ない。時刻は一七時手前と外来の受付終了間近だ。それでも大学病院ということもあって人は多く、となれば誰が何者なのかが判断しにくい。
そしてここで厄介なのがその判断のしにくさだ――ストーカーや通り魔の単独犯ならできることに限りもあれば、わかりやすい。だが相手は恐らく警察官である高村さんがその立場を利用できないほどの相手――組織的連中であること。
まだ確定ではないが、そうだと仮定した場合、全てがわからない今がどれだけ危険か。
このロビーにいる全員……十数人を優に超える全ての人間の微細な動きに、同時に注意するのは不可能だ。
だから仮定と推測をするしかない――そう闇雲に進もうとしたところで、背後から声をかけられる。
「あなたは近づく人だけを警戒して。多分、いるとしても一人か二人……」
声の主はアリス、彼女の言葉には自信が見える。思わず俺はその意図が読めずに視線は前を向いたまま聞き返していた。
「……なぜ断言できる?」
すると彼女は俺の左肩を二回叩き、視線を左に逸らした先で華奢だがタコのできた人差し指を伸ばしていた。
その先へ視線を動かすと、忙しなく動き続ける職員の姿があり、
「受付は通常通りに動いてる。ここ、ロビーに不審者がいるとすればこの二十以上の人たちの中なら、職員が不審がらないその程度だと思う」
なるほど、病院を買収してない限り、それほど多くの人員を配置できないわけだ。当然か、病院側に通報されては困るのは向こうでしかない。
少し考えればわかるようなことなのに、教えられることになるとは……体に力が入り過ぎていたのかもしれないな。
「冷静になれた、ありがとう」
「行きましょう」
アリスの言葉に静かに頷いた。
防弾車両にさえ辿り着ければいい、風一つなく波一つ立たない凪ぐ海のように冴え渡る思考と感覚の中、この場にいる全員ではなく、その場を立ち上がり歩き出した人物のみ焦点を合わせ、注意深く観察する。
作業着姿の男性――――違う。
中年の女性――――違う。
スーツ姿の若い男性――――違う。
子供連れの主婦――――違う。
トイレの前でぶつかった高齢の男性――――刹那、濁る感覚。
……一瞬だった。
待合室、多くの人が名前を呼ばれるのを待つその席の一つに男は座り、こちらを睥睨していた。先程はわからなかったが奴の目は、身に覚えのあるものと変化していく。
それは二年前見たものと同じ……淡く紅く光を宿し始め、それが一段階明るくなると、傍らに置かれていた杖など無視して立ち上がる。
ぶつかった時の違和感を納得させるような今までのは演技だと言わんばかりのそれに、俺も身構え、反射的に右手がP229を求め伸びるが、奴がいる場所は無関係な一般人が多くいる。下手に発砲すれば流れ弾が誰かに当たりかねなかった。
(封じられたか……!)
――――逡巡する思考は、奴を待ってくれる訳じゃない。
「きょうすけッ!!」
耳に届くアリスの声は焦燥に塗れ、意識を戻すも数秒の迷いは奴の接近を許してしまう。刹那に映る俺の視界は、紅く燃える瞳に光の尾を伸ばし、大きく右腕を振りかぶった男の姿。
……そして、俺の左頬に鋭い痛みと鉄の味が滲む。
明滅する視界に、殴られたと理解するのに時間はかからず、続いて強制的に右を向かせられた視界の端に、鋭く速い左ジャブが映った……奴の追撃だ。
けれど、そう易々とやられる訳にもいかん。
「ッらぁっ!!」
腹の底から力を入れた気合の一声、そして僅かに背中を逸らし、奴の左拳が俺の顔面中心を捉えたはずだったが、関節を伸ばし切った瞬間に、逸らした背中で反動をつけながら頭突きをお見舞いしてやる。鈍い音と額に擦れたような痛みが走るが、歯を噛み締める。
「がッ……」
奴も流石に堪えたのだろう。左拳を右手で庇い、重心が仰け反るよう後ろに移動したのが見えた。
俺はそこを見逃さず、奴の左拳を庇うことによってできた両腕の輪の上部へ左手を伸ばし襟を強く握る。右手は奴の左肘を肩の高さに合うよう上げさせ、素早く左足で足元を払う大外刈りで地面に倒す……はずだった。
「はっ?」
素っ頓狂な声、否定する、ありえないのだ。重心がズレているのだから踏ん張りなどつかないのに、眼前の男は俺の左腕を高齢とは思えない、いや年齢など関係ない……人として、その体格にしてあまりにおかしな怪力で掴み、無理やり重心を立て直したのだ。
倒れかかっていたことなどまるで遥か昔にすら思えるほどで、左腕の肉をぎりぎりみちみちと破裂させるようなその握力に、激痛で掴んでいた襟すら離してしまった。が男の手が簡単に離れる訳もなく、その上奴の瞳の紅が濃くなるごとに力は増していく。
――――マズイ、その瞬間右手が左腰の警戒棒を引き抜き、奴の頭部目掛けて振るう――――たった一瞬のその行動は、牽制程度にはなった。
人間離れした力で掴んでいた両手をパッと離して後ろへ二歩下がり、警戒棒を避ける素振り。
「な、なんなんだ、お前……!」
漸く解放された俺は、伸ばされていなかった警戒棒を痛む左手で今度こそ伸ばし切り、右手で中段に構えながら、そう問うた。
だがその問いはぐちゃぐちゃに反芻された感情が溢れたもの、理解できなかったのだ、髪の毛一本残らず全て白髪だというのに、どこからあの膂力が生み出されているのか。
「ブラフ……邪魔が入り失敗した、帰還する」
男は目線を俺に向けていながらも、どこか違う場所を見ながらインカムらしき物へ声をかけた。
どうやら奴が意識を向けた方向は、俺の左側――アリスと鈴がいる方向だ。ほんの一瞬だけそちらを見れば、あの回転式拳銃を構え、鈴を自身の背へ移動させた彼女の姿があった。
「おい撃つな――」
男の背後は何が起きているのか理解できていない一般人たちがいる、だから撃つな、そう警告した刹那、
「逃げるな!」
アリスが酷く憎悪を露わにした口調で叫び、男が立っていたはずの場所を見れば、既に姿はなく、代わりに右耳の蝸牛を弄る衣擦れ音に反射的に後ろへ一歩下がる。そしてアリスが銃を構えていることもあり、発砲を覚悟するが――銃声が鳴ることはなかった。
(逃げやがった……!)
気付くのに一拍遅れ、正面入口であるガラス張りの自動ドアが開く音、どうやらアリス側からすれば俺が重なる位置にいたので撃てなかったらしい。
だから俺は――――P229を手に取った。
慣れ親しんだ銃把を握って親指で撃鉄を起こし、引き金に右人差し指をかける。左手は優しく右手を包み込み、黒色の遊底上部に取り付けられた照星と照門を、駐車場へ続く階段を一段また一段と降りていく奴の上半身へ合わせた。
額の鋭い痛み、左頬の骨に響く鈍い痛み、瞬けば和らぎ、次には感じなくなる。そして奴の背に合わせた焦点が奴だけを映すようになると、それに比例するよう衣服に隠れる筋肉一つ一つの動きが明瞭になっていった。
そうして極限にまで研ぎ澄まされる感覚が告げる――外さない、と――拳銃の重さも、周囲の音も、何も感じない無機質な中で、
「撃て」
アリスの希う声が聞こえてきた。
少しでも引けば撃針が雷管を叩き、弾丸を叩き込めたろう、が俺は――――撃たなかった。
彼女の弾除けと、仁王立ちのまま。
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