第2話『田中アリス』

 目を覚ました時、俺を出迎えてくれた人たちの中に、和懇はいなかった。

 一年もの間眠り続けたことにも驚いたが、彼女のことを聞いても誰も答えてくれないことに、もっと驚いた。

 やっと、答えてくれたのは彼女の妹……命だけだった。


 更に一年後。

 リハビリを終えて退院し、彼女の幻影から逃げるように離れた都市近郊にて、初夏を過ぎ、夏の蒸し暑さに喘ぎながら、安く借りた解体予定のオフィスビルの二階で、朝遅くに目を覚ました。

 のそのそと寝室から這い出て、前持ち主が夜逃げしたとかで殆どの物がそのままとなった、元探偵事務所のオフィス兼応接室の今や居間となった部屋へ、と、あることに気づく。

 一人で暮らしているのだが、この蒸し暑い中ながら居間は爽やかだ。ついさっきまで、というか現在進行形でクーラーが効いているような……そう思い自分から見れば左手側、道路側に面した横長のガラス窓がある方へ視線を向けた。

 やはり、エアコンがついている。昨日の夜、確かに消したのは覚えており、結果ある結論に至った。

「……命か」

 呟くこのエアコンつけっぱなしの犯人の名。

 寝ぼけまなこを手の甲で擦り、また部屋を見渡せば、彼女の置き土産であろう弁当箱が、直射日光を避けるよう部屋のど真ん中に鎮座するガラステーブルに置かれていた。

 ご丁寧に『食え』と書きなぐった手紙も添えられている。

……俺が目を覚ました時にはもう、命は武装警備員になっていた。真意はわからないが、姉を慕っていた彼女のことだ、姉の――和懇の背中を追うつもりなんだろう。

 俺は今はいない彼女の顔を思い出しながら、可愛らしいキャラクターが描かれた弁当箱の蓋を開け、古ぼけたソファーに腰かける。

 一緒に置かれていた割り箸を手に、唯一の肉親を失った命へ感謝を押し潰す申し訳なさに苛まれながら、甘い卵焼きを口に運ぶ。


 昼が近づく。昼を過ぎれば夜が近づく。

 それに否応なく気づけば、夕暮れの空に金と朱が溶けて混ざるように、気分が夜に混ざっていく。

 朝のように嫌な時間帯だ――自問自答と思考が止まず、何もできなかったしなかった焦燥が湧きだすのだ。

 そんなものに浸かり続ければ耐えられないのは自分でもわかっていて、だから気分転換に外へ出る。

 この時ばかりは呪い続ける武装警備員としての資格が失効していなくて良かったと思う。なぜなら数少ない屋内射撃場へ赴き、ただただ的を狙って引き金を引くだけでいい、なんと楽なことか。

――だが良いことばかりじゃない。

 俺が今、照門、照星越しに的を狙って手にしている拳銃は、二年前のあの時――――和懇が使っていたP229なのだ。

 命が幾つかある形見の一つとして受け取っていたそれを、無理言って譲り受けたもの。

 後悔などあるわけない。譲り受けたのは俺の意志であり、これは傷である。一生忘れない、目に見えない傷。彼女を、和懇を守り切れなかった事実を忘れないための。

「捨ててくれ」

 暇つぶしが終わり、的の確認もせずに俺は店員へそうぶっきらぼうに言い、店を後にする。

 本来なら屋内射撃場を完備する銃砲火薬店内部に、使った銃の整備ができる別室もあるのだが、他人と顔を合わせたくない。さっさと鍵付き小型のガンケースへしまって、帰路についた。

 だが外へ出てみれば、雨に濡れたアスファルトの匂いに、眉を顰める。

 どうやら夕立があったらしく、車道にできた水溜まりは夕方六時を回りながらも、漸く沈みかけた太陽からの西日に照らされた、ずっと向こうに見える炎のような入道雲を映し、肌を撫でるビル風は蒸らしたタオルのよう。

 借りてる家からそう遠くないこともあって、しかも夕方だからと言って車を使わなかったのは間違いだった。

 流石に徒歩でこのままは、家に帰るまでに全身びしょ濡れかもしれない。そう考えて少しげんなりしてガンケース片手に歩いていると、

「――涼しいところでいいことしね?」

 屋外から避難でもしなければ熱中症で倒れてもおかしくない中、通りがかった公園入口で、とてつもない根性でナンパする若者の声が聞こえてきた。

 その声に釣られ、横目でちらと確認すれば、いかにもやんちゃしてます――的な風貌の三人組が、一人の女性を恵まれた体躯で囲んでいるではないか。残念ながら声をかけられている女性の姿ははっきり見えないが、三人の若者の中心に誰かがいるのは確認できた。

 続けて、嫌悪感を隠しもしない女性の声が続く。

「嫌と言ったら?」

「そんな嫌がんなって! 俺たち三人でちゃんと相手するからさぁ」

「結構、私は人を探しているので」

 それでも引き下がらない三人組に、行く手を阻まれた女性が一層強く断りを入れ、立ち去ろうと動く気配を感じた、が、

「えー! だったらオレら顔広いから探せちゃうよん?」

 三人の内の一人、細身だが自分磨きを怠っていない中背で筋肉質な男が、それを封じるように手を伸ばした。

「いたっ」

 ただ……手を伸ばした、というには少々荒っぽく、女性の痛みに悶える声が、小さいけれど漏れ聞こえる。

――途端フラッシュバックする記憶、それを伴いやってくる立ち眩みに視界がぼやけた一瞬、肥え太る後悔と水中で重りを括られたかのような無力感に、この場で自身の腹でも首でも、掻き切ってしまいたい衝動に駆られるが、その衝動はある思考から力に変わる。

「ふぅ」

 深呼吸、体の奥底を震わせ、周囲を見渡し……この辺りは人通りはある、だが目の当たりにしても、誰一人助けようとする人物はいなかった。

……それを責めるつもりはない。

 三人組の最後の一人、身長二メートル近くの大男が、女性の行く手を阻みながらもガンを飛ばして周囲を威圧しているのだから、相当な勇気と覚悟がなければ、割って入ることなどできないだろう。

「なんだ、あんちゃん」

 だが、俺は真っすぐ道なりの方向へ向いていた足先を、さっと九十度転換させ、その大男の前に立った――――俺は落ちぶれた元武装警備員だ。仕事よりも私情を優先し、和懇を失い、まともに仕事ができなかった。

「あんちゃん、英雄気取りかい? ならやめとけよ、痛い目……見たくねぇだろ?」

――だとしても――

「警告する」

「はぁ? 警告だぁ?」

 一番最初、女性に声をかけていた男が俺の前に出ると、同時に手が半ズボンのポケットへ入れられたが、構わず俺は警告を続ける。

「武器を持ってるのならそれを捨てるか、この場からすぐに立ち去れ。警察沙汰は面倒だろ」

「ひゃっひゃっ、マヌケ――」

――二度とあの時の後悔も無力感も味わいたくない――

 数が多いこともあって、完全に俺を下に見ていた男の鳩尾へ、右手のガンケースを払うように振るった。

 すると、ナイフを取り出そうとした男が着る、裸体のふざけた女がプリントされたタンクトップが、上手いことひっかかった。次の瞬間には、他二人と比べたら全く貧相な体が晒される。

「武器は出すな。俺もこれを出さなくちゃならない」

 威嚇程度のつもりであったが、思った以上の効果が出た。喧嘩だろうがしなくて済むのならそれ幸い、俺はその結果に大きく乗っかって振り抜いたガンケースを指差し、固まった三人組へそう忠告する。

……これを持ってる人物に、意図して喧嘩を売る者などいない。

「が、がっガンケース!?」

「しししし失礼しましたっ!!」

「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」

 ガンケースを確と見るや否や、一番最初に巨漢が逃げ、次に半裸の男が逃げ、それを追うようにもう一人が風のように走り去っていく。なんともズッコケ三人組という言葉が合うような若い男達だった。

 公園のずっと向こう側へ消えていく三人を眺め、安堵と同時に、願わくば二度とこんなことをしないでほしいものだ、と無理そうなことを願っておく。

 一つ息を吐き、無理やり声をかけられていた女性へ視線を向ける。酷い暴力は振るわれていない筈だが、怪我の有無を聞こうと思って――けれど、彼女の顔を見て、喉元まで出かけていた言葉が引っ込んでしまう。

「どうもありがと……ございます……?」

 それは彼女も同じだったらしい。お礼と恭しく下げられる筈だった頭が、半ばで止まり、いつか見た瞳を覗かせていたのだ。

 毛先から浸食されるように染められた白い髪、根本は黒く染まっているもののまばらで多少見苦しい。そして俺のことを、瞼をぱちくりさせて見つめる黒色にどこか緋色を思わせる瞳は、忘れる訳がなかった。

 言葉を失う俺を見て、彼女はいち早く気を取り直し、俺の名を口にする。たった二年程度じゃ変わらない、あの時の声……

「えっ、と……黒佐藤、恭介さん、でしたね」

――偶然じゃない。彼女のその呼び方が俺の中の勘を働かせた。

 いや、ここで出会ったのは偶然である。偶然ではないのは、彼女がこの街へ訪れている事実だ。

 人を探している、そう口にしていた彼女の目的がわかってしまい、

「帰ってくれ、今更俺になんの用かは知らないが、俺に……用はない」

――二年前と違い、俺は武装警備員として働いてはいない。故に彼女の……田中アリスの要望を聞き入れる必要もないのだ。

 だから俺は心の内の大きくなり続けるしこりを無視して、恨みはないが、日中よりは冷めた熱風が木々を揺らし吹き抜けていく様を見ながら、冷たく背を向けた。


「ついてくるな」

「なぜ?」

「なぜ、って……」

 そっぽを向いているのに、後ろを歩く彼女へ大きな溜息を吐く。田中アリス……俺がこんな態度を取る理由をアリス自身、思い当たる節がある筈なのだが、というか無くては困る。

 けれど上手く言葉にできず言い淀んでしまい、それが会話の主導権を彼女に明け渡すことになる。

「二年前、のことですね?」

……俺が口にできなかったことだ。

 それを平然と、凛とした口調で言ってのけたアリスに、その一瞬の表情を見られまいと視線を逸らし、歩く速度もかなり上げた。

 覆水盆に返らず、起きたことは二度と戻らない……だから嫌な想像などしたところで、仕方がなかった。でもそれを理解しているのにも関わらず、考え続けてしまう。

――彼女をどうにかしようとしても、和懇は戻ってこないのだ。あの時、この女がいなければと考えても仕方がないのだ、だけれどそう考えているのがやましくて、俺は歩く速度を落とせなかった。

 顔を合わせるのだって気まずく、今更機嫌良く接することもできない。だからちらと横目で様子を窺ってみれば、少し驚く。

 身長が違えば歩幅も違うのだから息切れ程度あってもおかしくないのに、そんな気配は彼女からは一つもなく、俺にぴったりとついてきている。

 流石に汗は掻いている、とそんな俺の視線に気づいたアリスが、

「? 何かあるなら聞きますが」

 長い髪を揺らし、たった数年前までは高校生だったとは思えない大人びた端正な顔立ちに、二年前から変わらぬ蒸気する熱意が垣間見える黒い瞳を真っすぐに、くいと小首を傾げた。

 しかし二年前とは違う態度、声色は、他人事のように見え、腹の中で赤白く溶け切った溶岩の如く感情が昂り、罵ってしまいそうになる、けれどそれを制止する自分が心の底に居て、俺は黙ったまま彼女の言葉を待った。

「あの時は、本当に申し訳なかったと思ってます」

「何に対しての、謝罪だ」

「お二方へ」

「……! 今更だ。今更、もう、あいつはいない」

 俺達へ、そう告げられた言葉は、遅すぎた。言うのであればあんなことになる前に言うべきだった……無理難題なのは理解しているとも、けど……思う程度ならタダだろ。

 肌に張り付く嫌な湿気、あの日の路地裏も、風通りが悪いもんで、似たような感じだったのを思い出してしまう。

「黒佐藤恭介さん」さっきも呼んでいたが、どこで調べてきたのか、俺の名を呼ぶと同時、黒革ローファーの足音が止んだ。諦めた訳でもないだろう彼女の様子に、まんまと乗せられた俺は振り向く。

「荒魂和懇さん」

 五メートルほど離れた距離、日差し避けの長袖の上着の左胸辺りを触れ、悲しげな表情を浮かべた彼女の視線は、真っすぐ俺へ、偏見で勝手だが、覚えている筈がないと決めつけていたアリスが言ったのは、確かに和懇の……名前。

 聞き間違えではない、ましてや幻聴でもないだろう。

 その小さな口元が、濡れた唇が紡いだのは、確かに彼女の名だった。

「なぜ……覚えている……?」

 卑下もあった。大企業の令嬢が、ただの警備員如き、しかも二年も経っているのだから覚えている訳がない、と……結果ただの偏見でしかなかったが、曇り翳った彼女の表情、ほんの一拍過った思考を遮って淀む言い回し、

「職業柄、と言うんですか――私の為に亡くなった方の名は、決して忘れぬようにしています」

 自分の為に人が死ぬ――――それが身近である口振りと嘘とは思えない様子が、真意なのか俺にはわからない。

 もちろん俺を利用する為の嘘の可能性もあるけれど、この場所で、ただ話しているだけじゃメリットデメリットが見えてこない。だから、

「……話だけは聞こう」

「!」

 キラキラと散っては震えて煌く瞳の星辰、気づいていたが既にここはオフィスビルが連なる通り、もう目と鼻の先に俺が借りている部屋があるのだ。

 だからお預けを食らう犬のように、わざわざ外で本腰を入れた話し合いをする必要がない。端的にそう伝えると、彼女は少し驚いた様子を見せるものの、なぜかその目線は俺の部屋へ向かった。

「そう言えばすぐそこだ。では折角なのでクーラーの利いた部屋へ行きましょう」

 家主の俺を放っといて先を歩く彼女は、知らないはずの俺の家へ迷いなく知っているようで、俺は彼女の背中を理由がわからず呆然と目で追っていた。

 同時、視界に入る頭上高く広がる地平線にほど近い空、そこから反対側へ押し伸ばされる沈みかけの陽光は、金、朱、紺とお互いを溶かし合いながら反対の空まで続く。

……だが中心は空じゃない。

 彼女の白と黒の髪に夕焼け色を映す後ろ姿――二年前とは違う脛辺りまでの丈のカジュアルなスカートに、前から見れば膝が覗くスリット、後ろからは膝窩がちらりと覗いているのが、どこか――――情景含め、わびさびを感じたような気がする。


 田中アリス、彼女を先頭に俺の車が停められた一階の車庫を通り抜けて、二階へ続く野晒し故に錆で中途半端に朽ちかけた外階段へ足先をかけたところ、ある異変に気づいた。

 気にならないか、あるいは気づいていないのか、階段を上っていく彼女が今し方足を乗せた踏面を注視すれば、濡れた土の欠片の下に、乾いた土が散らばっている。

「……誰か来てるな」

 濡れているのが彼女の物なら、もう一つの乾いた土が誰の物かわからない。靴の形を成すほどの量ではないので、アリスが一度ここを訪れた時にできた痕跡と考えることもできるが……

(俺の居場所を知る人物なぞ、命を含めて数人しかいない。なんにせよ、見てみなきゃわからんな)

 そう結論を出し、やはり知っているらしく二階の扉前に立つ彼女を見た。すると、左膝が覗くスリット、流石に下着が見える大きさの切り込みではないが、大胆に露出される脹脛とは違って、僅かに――愛玩動物が隙間からこちらを窺う程度の少し、

筋肉質でありつつも女性らしい脂肪がついた太腿が見えてしまう。別段やましいことなどないのだが、咎められた気がして思わず視線を逸らす。

 ただ、運が悪いことに、

「……どうかしました?」

 中々上って来ない俺を訝しんだアリスが、丁度逸らした瞬間に半身をこちらに向ける形で、俺のことを見たところだった。

 視線を合わせないかのような動きは、彼女が怪訝そうに眉根を寄せるのも当然で「――いいや、なんで今住んでる場所を知ってるのか、とな」パッと浮かんだ疑問を投げかけておく。

 どうやら誤魔化せた……別に気が咎めるようなことでも無いんだが、その質問にアリスは「見た方が早いです」とドアノブに手をかける。

 個人的には了承した訳でもないのに赤の他人が勝手にドアを開けようとしてることに違和感を感じるが、この際もう言ったところで感がある。

「どうぞ」

 だがアリスは、俺が自身と同じ高さ、二階の朽ちかけた外階段の踊り場に上り切るまで、ドアを開けることはしなかった。代わりに並び立つと、なぜだかドアマンを彷彿させる綺麗な所作で頭を下げたではないか。

 同時、金属同士が擦れる金切り音を鳴らしてドアが開く、何をしているのだろう……そんな疑問に無言のままの彼女を見つめてしまうが、彼女は気づいていながらも答えず、ただ入ることを促してくる。

 もちろん家主なのだから入るが、あまりに奇怪であるから怪しむのも当然だろうよ。

 そうして思考の波に揉まれながら室内へ目をやったところ、肌に触れる涼しげな風に気づく。

 次に、微かに夕焼けに照らされるも、生まれ落ちる宵闇そのものを湿気させたような薄暗闇の中で、ガラステーブルを囲むよう置かれた古いソファに腰掛ける、一人の人物へ意識が集中する。

 アリスの他に二人目がいるかもしれない、そんな予想を立てていた以上、大きな衝撃はなかったが、勝手に家に入って、勝手にエアコンで涼まれているこの感覚は、なんとも言えず、不愉快だ。

 顔は見えないが黒く人形の、けれど頭の部分が丸く坊主であることが確認できるのみ、少ない情報だが、俺がどこにいるかを知っており、しかもこの家の鍵を持ち、坊主頭と言えば、一人だけ心当たりがあった。

「――高村さん」

 玄関すぐ横のスイッチをかちりと手探り点灯させ、その名前を呼んだ。

「……ん? あぁ、帰ってきたか」

 古い蛍光灯にありがちな明滅後に照らされた室内、そして現れる男の姿は……熊がスーツ姿ながらクールビズをしてる、そんな言葉が似合う体躯の男が、寝ぼけまなこを覚まそうと目頭を指で押さえつつ、言う。

 一、二秒ほど間を空け、ソファに腰かけたままで固まった体を立つことによって解し、坊主というかスキンヘッドの頭を額から後頭部へ手のひらで撫でた。

 その時に状況は確認できたのだろう、俺の後ろから室内に入ってきたアリスを見たと思うと、

「本来は私がやるべきことでしたが……」

 百八十センチ越えの体格に見合った野太い声、だがその言葉遣いは丁寧で、深々、とまでは行かないが自身の行動を卑下したような口調から見るに、考え付いた答えは恐らく二人からの返答を待つ必要はない。けれど、偶然にしてはできすぎで思わず嫌悪感を露骨に出してしまう。

「また、国か?」

 前回――二年前と同じ、俺は当時雇われてるだけだったので、詳細までは知らないが、確か高村さん経由から流れてきたと……和懇は言っていた。

「申し訳ありません。私自身もいらないとは思うんですが、ボディガード無しは許可されないものでして」

 良く言うもんだ。襲われかけてたのに。可哀想な三人組を思い出しながら問いかける。

「人が死ぬ、ってのはそれ故か?」

「えぇ」

「なら話の続きだ。俺の、メリットはなんだ?」

 そう問いかけながら給湯室へ歩く俺、一応客なのでお茶の一つや二つは出そうと思い、冷蔵庫にある筈のお茶を汲みに行ったのだ。

 ただここまでの会話を知らない高村さんだけが首を傾げた風に、隣のソファに座ったアリスへ目線を送る。

「もう話は済んでるんですか?」

「いえ……ですが私の見立て通りです」

 給湯室とこの部屋は決して遠くない、なので二人の話声は聞こえているわけで、それどころか給湯室から出て冷たいお茶を注いだ紙コップをガラステーブルに置いている最中の会話が、これだ。

 アリスに至っては、俺が既に了承をした後のようにご機嫌なのだ。それとも、それだけの……

「メリットがあるのか?」

 ガラステーブルを囲うコの字のソファ、俺は二人が座る対面へ、腰かける。

 ずず、紙コップのお茶を飲むアリス、それは緊張による喉の渇きを潤す為の行為ではなく、ただ冷静に一口、もったいぶるよう。

 日本国内、どこでも買えるペットボトルのお茶だが、彼女は喉をこくりと鳴らし、大和撫子が茶を点てた抹茶碗を扱う手つきで、その紙コップをテーブルへ。

 続いてぱちりと瞬き、清流が豪雨で上流から濁っていく様にも見える彼女の黒と白の髪、俺の絶望を覗き見る赤黒い瞳を、彼女の熱に負けじと見つめ返せば、アリスは、ふっと笑った。

「具体的に何を知りたいのですか、それを報酬の一つとしましょう」

――――躊躇しない。

「和懇を殺した者について」

「お前……」

 高村さんの少し困惑した声が耳に届くが、アリスの声も重なる。

「わかったところで届かない存在であっても?」

「届くか届かないかは俺が決める。それが、選択だ」

「――――わかりました。黒佐藤さん、貴方もご理解頂いてるとは思いますが、一応全てここに書かれていますのでお目通しください」

 俺の本心を確かめる為だろう、再度見つめ合った俺達、やがてアリスは納得するとどこからともなく一枚の紙を取り出して、対面の俺へ正面を向けて差し出してきた。

 何か、そう心の内で考えるまでもなく、この紙は武装警備員として俺を雇う、契約書だ。

 既に彼女が書くべき欄には署名されており、活字の注意事項がずらりと並んだずっと下に、俺が書くべき項目がある。

 武装警備員時代から書き慣れたモノ、箇条書きにされてる部分もパッと見れば違いのない見飽きた文言ばかり。

「ここには書かれてないが、約束、守れよ」

 睨み釘を刺す俺を見て、

「私は、嘘を吐かない」

 まっすぐに彼女はそう言った。

 俺はそれを認めて、さっと自分の名前を書き、デスクに置かれた朱肉とハンコを手に取って、ポンッと押す。そして改めて面と向かって、

「ホテルか? それとも別に家でもあるか?」

 日時に指定がなかったので、今日この時、この契約書に署名捺印した時から俺は彼女を――田中アリスを守ることになる。ここまで用意周到な彼女のことだ、きっと全て織り込み済みでさぞ高いホテルにでも止まっている、そう思っての問いかけだったが、

「いえ?」

 冷たいお茶を一口、続く答えは否定だった。

「ここに住まわせていただきます……っていうのも変か、今から雇用する側だから敬語はなしになるけれど、いいかしら」

……ん? 変というのは、口調の話?

「荷物は基本現地調達だから、後で買い物に付き合ってもらうから」

 思考停止に陥る俺を放って、アリスは立ち上がって部屋を見渡し始める。そして横で静かに話を聞いていた高村さんへ、ちょいちょいと手招き、

「高村さん、安全性についてどう思います?」

「ここよりも高い場所は少ないですし、狙撃などはカーテンでもつければいいとして……容易に部屋に侵入できそうなので、トラップには気を付けた方がいいかもしれませんね」

「同意見です。古いことも相まって……」

 二人して真面目に話始めてしまったではないか。

 それどころか、俺が今現在寝室として使っている部屋を容赦なく覗き「私が寝るのはやっぱりここですかね?」とアリス「逃げ場がなく多少危険ですが、入口があまりにざるですからね……」と高村さん。

「……」

 一瞬、今なら契約書を破いて燃やして無かったことにでもできると、うんざりしながらガラステーブルへ目をやるものの、既に契約書は見えない。

 落としたか? そう思い床を見ても何かが落ちているようには見えず、もしや、そんな風に上げた視線の先、高村さんと話すアリスの右手に折られた紙が持たれている――いつの間に……? 

……まあ構わんさ、構わん……

 深い溜息を吐き、俺の意志など関係のない二人に対して、何か行動を起こすべきなのだろう、蚊帳の外というか、爪弾きにされてるのだから……まあ、面倒なので思考の外へひょいと置き捨て、寝室に通じる扉横のデッキの上に置かれたテレビを、リモコンで点けた。

 現実逃避に近いが、報酬は十分だ。一瞬の感情で全てを不意にする必要もない……そんな風に思う事にした。

 そして、まずテレビに映ったのは幼児向け番組、変えるとアニメ、更に変えるとニュースが映る。だがやってるのは明日の天気だとか台風の情報、大した報道はなく、暇を潰すにも潰せない内容に、天井を仰いだ。すると神など信じていないのにこの状況から目を逸らす天啓が降りてくる。

「あぁ、手入れ、するか」

 思いついた通りにガンケースを探す、が足元を手探っても見てもない。記憶を探ろうにも色々ありすぎて曖昧である。だが確かに手に持っていたことだけは覚えており、ガラの悪い三人組を蹴散らした時にも持っていた。

 俺にとって、武装警備員にとっても大切な代物だ。どこかに忘れる訳もなければ、手放すようなこともしない。だから、と俺が座った側のソファの横、丁度俺から見ても死角になっている肘掛けの横であるソファ側面を覗くと、あった。

 俺はガラステーブルを割らないよう優しくガンケースを置き、中身であるP229を取り出した。

 なんの変哲もない、二年前俺が持っていた物とも変わらない、彼女の愛銃。

 弾倉は抜いてあるが、念の為に遊底を後退させて、弾丸が入っていないことを薬室内部を直接見ることで確かめ、弾倉が入っていないのも手と目で確認、すぐに通常分解へと移った。

 自分のデスクから持ってきた道具を使い、大まかなパーツとなった拳銃の部品を丁寧に綺麗にしていきながら、どこか動かす手がいつもより重いことに気づく。

 なぜか、そう考えて一つ思い当たる。いつもなら何かから逃げるように始める銃の手入れだが、今日は――俺一人じゃないのだ。

 騒がしくてうっとおしいが、最近忙しいらしい高村さんと直接会うのなんて、二年ぶりでアリスに関しては、正直複雑な心境であるが、聞きたいこともあり、それを聞ける機会を得れたと考えれば決して悪くはない。

 特に聞きたいのはアリスにも伝えた通り、彼女を殺した人物について、他に和懇の死に際や、俺視点ではない彼女視点のあの時……一瞬で俺達を屠った相手を前にして、どうやって逃げ伸びたのか、だ。

「――最近、多いな」

 無意識に顔面に入った力が、いつの間にかこちらのフロアに帰ってきていた高村さんの野太い声で抜けていった。

 見ればアリスも戻ってきており、俺が点けたテレビの報道を二人して見ているところだ。

「また、ですか」

――見覚えのある事件、見覚えのある顔、心に刻まれた深い悲しみが、隠した物と蓋をした感情と、父の姿を呼び覚ます。

 テレビから流れる内容が、先程までここ一週間から一ヶ月の天気予報だったのに、急遽変わっていたのだ。人が慌ただしく動き回るのを背に、堅苦しい表情に眼鏡をかけたアナウンサーが、原稿を手にテレビを見る聴衆へ伝える。

 それは十一年前、全国レベルのテレビ局が主催となったあるイベントでのこと、死傷者数百人、負傷者は千を超え、日本国内にて初めて銃火器を使い組織的に行われたテロの実行犯のうち一人が、原因不明の獄中死を遂げたという報道だ。

「身体こそ神体の会……結局奴らの会長であり、首謀者である矢原の居場所もわかってねぇのに」

 高村さんの表情に変わりはない、がその場で立ち尽くし、崩した口調、悔しさに力任せで握る拳は白くなっている……当時、俺の父と一緒に交通整理をしていた高村さんは、その惨劇を目の当たりして、生き残った一人。

 今更どうしようもできないことだとわかっていながら、それでも後悔は止まない――不意に、アリスへ視線が移り変わる。

 悔やむ高村さんの隣で、彼女はぼーっとしているように見えたが……どこか違和感を感じた。

 俺自身が座っていることもあって、立ったままの彼女の顔を僅かに斜め見上げた俺の目には、熱――――二年前と全く同じながら、だけどそうじゃないと言い切れる違和感、ただの熱じゃない、言葉では表せない感情が見え隠れしているようなのだ。

 わからない、燃え上がるような炎はアリスの心に何か熱い想いでもあるのかと思っていたが、今なら否定できる、きっともっと違う何かだと――――

「どうした?」

 一人で考えたところで答えには近づけない、俺はなんとなく悟られないよう、様子がおかしいアリスへ問いかけた。

「……! いいえ別に」

 ハッ、と頭を振ったアリスの目と目が合うが、もうそこに先程の熱は感じれず、自身を守るかのように飄々とした態度に戻っていた。

 今の質問で答えなかったのだ。言えば知られたくないもの、まだ付き合いの短い俺がこれ以上踏み込むのは、何かと問題がある。ましてや、気分を害して得られた筈の情報を捨てるなど、できない。

 俺は手を動かしつつ「それならいいが」と断り、次に腕時計で時間を確かめ、帰り支度を始めそうな高村さんへ視線を移す。聞きたいことが一つだけあった。

「高村さん……用があるわけじゃないんですけど、一つだけ聞きたいことがあります」

「用があると言われても困るが……それで、なんだ?」

 時間にしてみれば五時を過ぎている。そろそろ帰りたがるのももっともなことで、

「娘さん、鈴ちゃん元気にしてますか?」

 高村さんにはまだ未成年の子供がいるのだ――もう時間にすれば二年以上会っていないが、高村さん本人とは久しぶりに直接会えたので、気になっていたことを口にした。

 けれど、

「ん……まあ、元気だ」

 あまり上手くいっていないのか、苦虫を噛み潰した顔をして歯切れの悪い返答であった。

「もう二、三年会ってないですけど、たしか高校生でしたよね」

 見える横顔、高村さんは何かを考えるように瞼を閉じ、

「あぁ、そうだ」

 頷いて答えてくれるものの、同時に急くように歩き出した。まるでその質問をされたくないように。

「悪いな、とりあえず俺の仕事はこれで終わりだ。では、また何かありましたらご連絡ください」

 俺に対しては背中越しでの別れだったが、アリスに対しては礼儀正しく振り向き、きちんと視線を合わせていた。彼女もそれに答えており、

「ええ、では何もなければまた出国時に」

 一礼するアリスを見届けて、高村さん自身も軽く会釈し、そのまま玄関から出て行ってしまった。

 あの質問をしてから、途中よそよそしくなったが……

「……踏み込み過ぎたか?」

 そう思うのだった。

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