「楽」
人を好きになるってぇと、居ても立ってもいられない。いわんや相思相愛となれば、いつでも一緒にいたいってのが人情であります。
エドワード・ホールというアメリカの学者が提唱したパーソナルスペース。他人が自分に近づいても、不快に感じない限界の範囲を指すそうですが。それが、半径45センチ以内に相手が侵入しても不快に感じない場合、その関係は恋人レベルだとか。
コロナ禍の昨今、ソーシャルディスタンスだなんて言葉に
こんなご時世でも、惹かれ合う本能は大切にしたい。若い人たちには、警戒し過ぎてチャンスを逃すなよ、ソナーはしっかり張り巡らせておけよと、言ってやりたいものです。
自由に恋愛を楽しむ現代にも、純情と言うか、生まじめと言うか、なんと言うか……
色恋というものに不器用な人ってのは、けっこう居るもんですからね。
この大都会、東京の空の下にも。
ある満月の晩
よう、月見はどうだったい?
あぁ、いいお月さんだったよ。
こっちに越してから色々と聞いていたが、うわさ通り。あんな十五夜を見たのは始めてだ。
そりゃそうよ。この辺りの月って言やぁ有名さ、昔っから色々と詠まれてるだろ。
めぐりあはむ、空ゆく月の行末も、まだ遥かなる武蔵野の原……藤原定家ってな。
あぁ知ってるよ。広大な武蔵野の原野にぽっかり浮かぶお月様。風情があるよね。
こんなのもあるよ。
行くすゑは、空もひとつの武蔵野に、草の原より出づる月かげ……
よしつね……そりゃ、九条良経だな。
おっご名答、やりますね。では同じ月かげでもこれはどうだろ。
ながむべし、霜に枯れゆく武蔵野の、露の名残に宿る月かげ……
んっ ……誰だっけ?
ふふっ、
こりゃまいった。そんな和歌まで知ってるとは……ハハッ、流石に大学出の作家さんは違うってか。武蔵野の月を満喫出来たようだな。
いや、
ん、一次通過したって意気込んでたじゃねえか。え~と、なんとか文学賞……
あれか、……駄目だったよ。
……あぁ、そうか……まぁ、なんだ……
で、どうだった、一緒だったんだろ。あの
えっ、いや、そこまでは……
手を握るのが……精いっぱい。
なんでい、こんな絶好の夜にそれだけか……
まぁでも、お前さんにしたら上出来だ、頑張ったじゃねえか。
それで、OKは貰えたのかい?
告白したんだろ。
まぁ、したことはしたが……
おぅ、やったじゃねえか。返事は?
別れ際に「会えてたのしかったわ」と。
脈なしだな……
会えてたのしかった……か。そうか……
で、こいつのどこがいけねえんだ。
いや 、いけないというわけではないが。
じゃあお前さんはあの
もう少し、なんというか、特別なことばを。
とくべつぅ?……例えばなんだい。
たとえば……
「月が綺麗」とまではいかなくても……うれしかった 。そう、「会えてうれしかった」と。
フッ、龍之介
んっ……今、なんて言った?
龍之介、芥川りゅうのすけかぶ……あっ!
それを言うなら「漱石かぶれ」……だろ。
お月さんに笑われちまうよ。
うっ……うっせいわ、月が笑うわきゃねえだろうが。月が笑うだとぉ、こんちくしょうめっ!
やれ……たのしいも、うれしいも、一緒じゃねえか。
違うよ。女性から言われるんならそっちの方が格段に上だよ。女が喜ぶと書くんだぜ。
また小理屈を、頭でっかちが。んな事だから……
まぁ、いいや。とにかくお前さんは幸せもんだ。
えっ、……なんで?
あんないい娘が、好いてくれてるんじゃねえか。
……
もちのろんさ、お前さんの目は節穴かい?
馴染みの俺が言うんだ。
嘘だと思うなら、
それに笑うといっそう美人だ、俺もあやかりてえもんだよ。
浅草寺には二人でよく行くが、そうだろうか……
そうさ。早くに両親に逝かれてさ、目の見えねえ祖母さんの面倒をみながら、あんだけ苦労して生きてきた娘だ。
笑うことなんて、めったに……
生い立ちは聞いている。が、そんな想いをしていたとは知らなかった。
んっ?
するってぇとなにかい、
あぁ……
見上げたもんだ。
そういやぁ、こんなこともあったっけな……
七年前か、あの娘が高校二年生の頃だった。
両親を亡くして一年もしねえ内に蓄えが尽きてな、父親の借金もある。国保の遺族年金と祖母さんの年金じゃ暮らしていけねえからと、彼女はアルバイトを始めたんだ。
ほれ、駅前の海鮮お好み焼き。
あそこの店主は俺のダチでさ、よく食いに行くんだよ。そこで頑張ってたっけ……
バイトしてたのは聞いてるよ。
あの店は昔っから給与は手渡しなんだがな。
ある給料日、あの娘は帰り道で落としちまったらしくてよ。そこらじゅう探しても見つかんねえ。交番に行ってもダメだった。
諦めた彼女はしょんぼり家に帰ったさ。だがな、このことで祖母さんに心配は掛けられねえ。で、祖母さんの食事はいつも通り作ったが、自分は飯にごま塩だけで凌いだそうだ。一ヶ月もな……
そんなことが……
あぁ、それだけじゃねえ。俺達が知らねえ苦労話なんてのは、掃いて捨てるほどあったろうよ。
そうなんだ……
このあいだ住職が話してたよ。
あの娘は本堂の前でなにやら祈願していたそうだ。気になったもんで聞いてみるとな、
……お前さんの一次通過の礼と、本選での入賞を願っていたそうな。
えっ……
「会えてたのしかったわ」……か、ふふっ、あの娘がねぇ。けっこうな話じゃねえか。
確かに「楽しかった」と、そう言ったんだな。
あぁ……言った。
ふふ~ん。な る ほ ど ね……
なるほどねって、もったいぶって。
……
考えてみな。
ん……ん~
……で、わかったかい?
いや……
……じれってえ男だなぁ。
ようは
……らく……
たのしいってのはな、生きてて楽ってことなのさ。
お前さんはあの娘に、楽をさせてやってんだよ。
あっ……
ちっ、ようやくかい。
このぉ、すっとこどっこいがっ!
…………
それとな、ついでだから教えてやらぁ。
「嬉しい」ってのは、一時的に湧き上がる感情にすぎねえ。だがな「楽しい」は、連続する心の
そうさ……
お前さんといるあいだ、ず~っと継続してんだよ。
うっ、こんな俺を……
なんだおめぇ、
ううっ……うっ……
彼女の笑顔を、思い出しちまった……
泣いてんのか?
……ううっ……
……まぬけだねぇ。
ほれみろ、
お月さんも、笑ってやがら。
……
《参考音源》
「Fly me to the moon」
https://youtu.be/znvaScz9g98
武蔵野の月 麻生 凪 @2951
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます