第6話

「助けてって言ってもなあ。」

 早速押し付けられた洗濯業務で、満月はここで暮らす老婆のヴァナさんとキナマニアさんと一緒にシーツを広げていた。

 ヴァナさんはそれは優秀な従軍看護師だったらしい。彼女曰く先の戦争では敵味方関係なく多くの人間を救ったのだそうだ。戦争があったというのはざっと80年以上前らしいから、彼女はかなり長生きしているらしい。左は義足だが、遜色なく歩けているのは彼女の努力の賜物だろう。生物兵器に齧り切られちまったよ!なんて高らかに笑われてしまっては、満月も笑い返すしかなかった。

 キナマニアさんは初日に玄関で会った老人だった。重度のニズナーかと思いきや、よくよく話してみればまだらに症状が出るらしい。特に夕方と明け方は人が変わったようになるとかで、仲のいいヴァナさんがよく声をかけているようだが、あの日がたまたま先に怒鳴られてしまいパニックを起こしたようだった。

 キナマニアさんは話してしまえばよく笑う方で、寓話や詩に精通していた。学校の先生ですか?なんて聞いたら随分嬉しそうにしていたので、もしかしたら似たようなことをしていたのかもしれない。

「ええと、……。」

「マンゲツですよ。マンゲツ。言いにくいですか?」

「そうねえ、ここいらじゃ馴染みのない言葉だもの。あなたのお名前を考えた人はよほどの変わり者か、相当プライドが高いのかもしれないわ。誰かと一緒の名前にしたくないという誇りは誰にでもある。でしょう?」

「はは……そういうものでしょうか。」

 キナマニアさんは小首を傾げ、干し終わったシーツの端を伸ばしながら空を見る。

「マンゲツって、何かしらね。」

「満月っていうのは、そうですね……。」

 満月は昨晩窓から見えた星空を思い返す。月らしき惑星は見えなかったことから、この星はそれに匹敵する惑星はないのかもしれなかった。これについてはこの世界についてもっと学ぶ必要がありそうだ。

 たとえ話一つにとっても文化を知らないことのなんと口惜しいことだろう。今まで現場で培ってきたノウハウが生かせないもどかしさに、満月は歯噛みした。

「…大きくて丸い、明るい星のことなんです。故郷ではそれが一番きれいなときに満月と言うんですよ。」

「あら、ロマンチック。」

「……女の子だったら、ミツキ。男の子だったらマンゲツにしようって、母が決めてくれて。」

「そうだったのね。それはいい話だわ。」

 和やかに樽を片付けながら、足元に気をつけて彼女らを室内に誘導する。一気に空気が変わり、キナマニアさんがおろおろし始めるので、満月はさっと手を握って笑いかけた。

「キナマニアさん、一服の前にお手洗いに行っておきましょう。ヴァナさんもね。」

「……。」

 ヴァナさんは快諾し、自室に向かって行く。そっと手を引こうとして、キナマニアさんの顔に恐怖が張り付いているのがわかった。

「どうしたんで……。」

 握った手が小刻みに震えている。見開いた目が怯えに潤むので、その視線の先を追い、満月もまた息を呑んだ。

 そこにいたのは少なくとも、満月がこの世界にきて初めて見る生物だった。

 醜く肥大した頭部には吹き出物が溢れ、決壊した部分からガスが噴出している。所々開いた部分からは粘液が垂れ、奥に鋭い牙がいくつか並んでいるのが見えた。胴体部分は滑らな円柱にだったが、その下には机のように伸びた細い脚が4本、全体を支えていた。膨らんだ部分は次第に揺れ、ブクブクと泡を吹きながら先をとがらせていく。全体は人間の内臓のように薄いピンク色でできており、頭頂部からチラチラと細く細かい触手が見えていた。

 目を合わせてはいけない、と思った。

 認知してはいけない、とも思った。

 それを悟られたらもっといけない、と解った。

 キナマニアさんの手を引き、踵を返して歩き出す。

 あんな巨大なものがいたら、昨日仕事を習っているときに気づいただろう。ましてや先ほど洗濯を干しにとここから出たばかりだ。その時には確かに何もいなかった。廊下の角にあったのは趣味の悪い空の花瓶くらいだ。

 やがてこちらを認識したのであろう、シュウシュウと酷い匂いをまき散らして一歩ずつこちらに近づいてくる。次第に速足になっていく満月は、道の恐怖で毛穴という毛穴から熱が全て逃げていってしまった気分だった。

 共同トイレでもいい、誰かの部屋でもいい。この人を守らなくては。介護士としての本能がそう警鐘を鳴らしている。脳裏で星がチカチカと瞬いて、涙が出そうだ。竦みそうになる膝を叱咤し、キナマニアさんに優しく声を掛けようと息を吸った時だった。

「何してやがんだ馬鹿野郎!!!!!」

 ラズレザフの酷い怒号が届く。満月たちが身構えるのと、衝撃で建物が揺れるのは同時だった。

 ドガアアアアアアアアン!!!

 凡そ介護施設では起こり得ない音が鳴り響く。恐る恐る目を開けると、ラズレザフの拳が、バケモノの頭部を貫通しているところだった。バケモノはキュウキュウと情けない音を立てながらしぼんでいく。ラズレザフは腕を引き抜くと、うへえ、と鼻を押さえてから、バケモノを軽く畳んで持ち上げてしまった。

「ったくよぉ、こんなの一つ倒したこともねえのかよ。それとも忘れてるだけか?」

「え、えと……ありがとう、ございます……?」

「うん?礼はいいよ。これで昼代が浮いたしな。」

「は。」

「こいつ、焼くとまあまあ旨いんだ。」

「た、食べるんですか!?それを!?」

「食うぞ。ガス抜きすりゃ甘いしな。」

 ガハハと笑いながら、彼はズンズン進んで食堂に消えていく。へなへなとへたり込んだ満月に、何を思ったのかキノマニアさんがそっと寄り添って頭を撫で始めた。

「よしよし、こわかったねえ。」

「あ……あはは……ありがとうございます……?」


 

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ISEKAIGO ―異世界介護士奮闘記― @obedach

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