第5話
「一日の流れは大体こんな感じか?お前根性あんなァ。見直したぜ。」
「はあ……。」
一日の流れとしては全く問題がないと言ってよかった。普通の人間の一日とほぼ変わらない。朝食後排泄を済ませ、外出等の用事に向かう手伝いをする。入浴や食事の手伝いをすることもあれば、臨時対応と体調管理に追われることもある。手に負えない不穏行動には、それなりの対応もする。昼食も、おやつも、夕食もある。各々の趣味は、押し込められた6人部屋のベッド上でそれぞれ楽しむ仕組みらしい。
すっかり見慣れてしまったが、まだまだ彼らの繊細な表情を読み取るのは難しいなと感じる一日目だった。
彼の声掛けや介護方法には問題しかなかったが、郷に入っては郷に従えというのだから、黙ってみるしかなかった。老人が拒否に泣き叫ぶ声がまだ耳の裏に残っているが、それでも彼を頼るしかないのだ。掴まれた腕の痛みに泣いていた人を、明日は労わりに行ってあげよう。
「多いだろ。ここに住んでるのは40人くらいか。時々ここの前に棄ててあるときもありゃ、自分で来る奴もいる。まあ、今日一日でやることの殆どは見せたな。いやあ、これでバテねえたぁ……何かやってたのか。兵士とかそういう?」
「いや、特には。というか、兵士制度のある世界なのか、ここは。」
「あっそうか、お前ニズナーなんだっけな。そりゃそうか。それだけ体力があって文字も書けるのに訳もなくこんな底辺の仕事宛がわれるわけないよな!」
ガハハと豪快にシチューの肉を頬張るラズレザフは、随分リラックスした表情をしていた。先ほど年寄りに向かって暴言を吐いていた奴と同一人物とは思えない。
「あのですね、先輩。」
「よせよ、恥ずかしい。貴族じゃねえんだ。ラズレザフでいいよ。」
「じゃあ、ラズレザフさん。ニズナーって、なんですか。」
「おっと、そこからか。ニズナーってのは”白痴”のことだ。呪いや事故、病気なんかでこの世界のことがわからなくなっちまった奴を指す。まあ、広義で言えばここのジジババの大半は重症のニズナーだよ。あんたは一部の知識が落ちてる、軽いニズナーってやつだ。」
「そうか。同じカテゴリーなんだな。」
「なんだ、ショックは受けないんだな。」
「まあね。」
満月のいた現代日本において、65歳以上のうち6人に1人が認知症があると言われている。社会問題である介護の現場は、認知症の医療的ケアだけではなく認知症を抱える本人とその家族の生活の質の向上と支援強化を急務としていた。それらを必要とする人々は徐々に増えつつあり、その研究は年々進化しているが、その名称が『痴呆症』から『認知症』に変わったのは2004年の話である。
今でこそ長寿の中では誰でもなりうるものという認識が広まったものの、それまでの社会は『痴呆』『ボケ』と呼んで侮蔑していた。それは鬱やせん妄も含まれ、社会から弾き落として下に見るのが当然だったのだ。
「自然の流れでしょ。」
「お前、さては頭いいな?」
「さあね。どうかな。学校の成績は良くなかったよ。」
「嘘つけよ。」
ラズレザフは短く切った頭をガシガシ撫でると、匙を振って食堂奥の棚を指した。
「あそこに一通り百科事典だの童話だの揃ってるらしいぞ。俺ァ字読めねえから知らねえけど。」
「え、読んでいいんですか?」
満月の頬が明らかにぽうと染まる。その眼はキラリと潤んでいた。
「本来ここに住んでたジジババが残していったもんだ。好きにしろ。」
「ありがとうございます!」
夕飯を急いで掻き込み、本棚に駆け寄る満月の背中を見ながら、ラズレザフは頬杖をついた。
「しかし、そんな偽名でいいのかお前。俺だったらちょっと嫌だぞ。」
「え、園田満月って何かダメなのか?」
ラズレザフは頭を掻く。
「………サノダーは、ミジンコの別名なんだよ。」
*
入浴を済ませベッドに転がる満月は、窓の外に広がる星空に安堵していた。深緑の空の向こうで、見たことのない配置の星が見えている。空を縦断するように天の川らしき靄がわたっているあたり、ここは地球と同じように銀河の途中に位置する星か何かなのだろう。
思えば数奇な所だ。
文明人の形状は多少違っても、環境は殆ど変わらない。嚥下しても問題のない水、食事への考え方、衣服の概念も同じだ。調理の方法も生と過熱と熟成を使い分けている。……自分の身体が人間じゃないから適合しているのかもしれないが。
排泄に関しても生殖器が外に露出しているのも同じだった。胎児出産なのか、臍も確認できた。
「……ミジンコ……。」
思いの外ショックで頭を抱える。そりゃ、出合頭に笑われるわけだし、偽名だと思われても仕方がない。それにしても、ミジンコだなんて。
園田が聞き取ってもらえず、サノダーになっているだけでなく、それがファーストネームだと思われていると思うと、なんだか自分の名前が本来の意味でとらえてもらえることがどんなに幸福だったのかを噛みしめてしまう。今から別の名前を考えようか、いやでも俺の名前は満月だしなあ、と悶々としていると、鏡が一瞬キラリと光って、それから白い靄に覆われるのが見えた。
満月は転がり落ちるようにしてベッドから這い出し、鏡に急ぐ。一瞬本当の自分が映ったが早いか、すぐにその姿はマドカになった。
「……や、こんばんわ。」
「こんばんわ、じゃなくて!なんだよ今朝の……!」
「ハハ、ごめんね。あの時は時間がなくて。」
マドカはクスリと笑ってから、それで、どうだった?と首を傾げた。
「ここ、酷いでしょう。」
「……ああ。酷い。身体拘束、虐待、暴言、暴行、何でもありだ。」
「うん」マドカは目を伏せる。「ひどいんだ。ここ。」
「でも、ラズレザフさんは知らねえってことも分かった。」
「へえ。」
マドカは目を丸くする。十字に開いた口の中で舌を巻いていた。なんだその動きは。感心でもしているのか。
「……っていうか、僕の感想はどうでもいいんだよ。今朝言ってたあの頼みって、一体なんなんだ。」
自分の声だけが天井に跳ね返り、しんと染みていく。マドカは試すような顔をして、自分の口元をなぞった。
「助けてほしいんだ。マンゲツ。」
「何?」
「……助けてほしい。ここを。この世界を。」
「はあ……世界とはまた、大きく出たな……。そういうのは軍隊とか、国に頼むんじゃだめなのか。」
「だめだし、できないんだ。」
マドカは悲し気に笑う。ふ、という息は白い靄になって口元に暫く漂ってから消えた。
「なんで……。」
「そのうちわかるよ。」
「しかし、依頼内容が雑すぎる。僕にできることといったら、介護しかないんだぞ。社会に出てから8年、介護以外の仕事してこなかったんだから。」
「だからだよ。だから君に頼んでいるんだ。」
マドカの目の奥で、ゆらりと炎が揺れた気がした。自然と伸ばした手は、鏡の中のマドカの手と重なる。
「……たすけて、介護士さん。」
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