第4話
窓の外がまた美しい緑色の空になっているのを確認し、満月は朝が来たのを悟った。夢にしては長すぎるが、起きてみれば1時間程度映画を見ていたような気持になる内容にまとめ上げられるに違いない。宛がわれたベッドに残るうっすらと甘い腐臭は、満月の記憶に残るそれと同じだろうか。
滑り出すように洗面所に移動し、回す形式の蛇口をひねる。現代社会によくある自動センサーつきの蛇口やライトは搭載されていないし、コンセントも見当たらないことから電気社会ではなさそうだ。館内の照明はぼんやりと明るく灯っているが火のようには思えない。これについては、この世界について調べるほかなさそうだなと彼は思った。
透明で冷たい水は気持ちよかった。昨晩は疲労からか案内されて早々気絶するように寝てしまったので、この世界にきて初めての手洗いと洗顔になる。
両耳にかかる眼鏡の感触にこれこれと安堵し瞼を開いて、満月は危うく叫び出すところだった。
鏡の向こうには、自分であって自分でないものがそこにいた。
人間に非常によく似た形状の生命体だった。薄めの色の肌に、頭部の横に突出した耳、位置は同じだが口部分は縦にも横にも裂けている。鼻は前方に軽く突き出しているものの、やはり穴といったほうが正しそうだった。眼球の色は髪と同じ渋栗色で、天然パーマが好きな方向に跳ねている。そしてその顔は、恐怖に歪む満月とは別に、面白いものを眺めるように孤を描いていた。
「な、な、な……!」
「怯えないでよ、マンゲツ。せっかくあんたのこと助けてあげようってのにさ」
「だ、誰…です、か…!?」
ガクガクと震える口元をなんとか奮い立たせながら、満月は鏡から少しだけ距離を取った。ザモさんが言っていた『呪い』という言葉が脳裏を過る。己でどうしようもできない事柄に対する本能的な怯えで内臓が引きつる感触さえあった。
「まずは自己紹介だね。俺の名前は円。」
「マドカ?えっ、日本名?」
円と名乗った彼は軽く頷く。
「折り入って頼みがあるんだ。俺にもどうしようもできなくて。」
「……頼み?」
外に人の動く気配がして、はっと息を詰める。おそらく早朝徘徊か巡視なのだろう。
「大丈夫だよ。この時間はザモク爺さんが目を覚ますんだ。」
「……詳しいんだな。」
「詳しいさ。なんたって、俺はここにもう50星霜働いてるんだからさ。」
「50星霜って、半世紀じゃないか!」
満月が絶句し、鏡に掴みかかる。鏡の中の円は、そうだよ、と当然とでも言いたげに頷いていた。
「……もう太陽が高くなる。続きは明日のこの時間にまた話そう。」
「ま、待ってくれマドカ、まだ頼みの内容を聞いていないし、そもそもこれは夢じゃないってことか!?」
鏡の中が蜃気楼のように揺れている。残される怯えに震える満月に、円はごめんな、と小さく謝った。
「ともあれ、君が無事ここに来てくれて本当によかったよ、マンゲツ。ザモのおっさんならそうしてくれると信じてよかった。これで俺が君を呼んだ意味があったってもんだ。」
「は……?」
「じゃあね、マンゲツ。また明日会おう。」
「おい、どういうことだよ、おい!」
満月が鏡に掴みかかるが、そこに映っているのはいつもの”人間の”自分の顔だった。ぺたぺたと触ると、所々感触が違う。口元を恐る恐るなぞると、縦の裂け目とその間の小さな歯があった。力なく頽れる。僕はとっくに、人間じゃなかったらしい。
思えば不思議だったのだ。空の色が違うということは、光や大気の条件が少なくとも自分の知っている世界と違うのだ。発語の音に違和感こそあれど、言語能力に問題はない。なんなら識字能力も備わっていた。何よりカプースコルの街を歩いているときに、誰一人自分に違和感を抱かなかったのだ。当然だ。自分も皆と同じ種類の生物だったのだから。
「……お、おお、おおおおお……!!」
ブツンと意識が途切れる感覚とともに、視界が消える。満月は次の目覚めに、ワンルームの天井が現れるのを賭けるしかなかった。
*
「……い、おい!」
乱暴な声に目を覚ますと、昨日の乱暴な先輩が自分を覗き込んでいた。
「うわっ!」
「人の顔みるなりうわとは失礼な奴だな。まあ昨日から失礼な奴か。まあいい。」
先輩は満月の腕を掴んで立ち上がらせ、来いと短い声をかけて歩き出す。ズレていた眼鏡を直しながら慌てて先輩を追いかけると、螺旋階段の上で急に止まって、建物全体が揺れそうな大声を上げた。
「おはようございます施設長!ほら、こいつです!昨日、ザモんとこから寄越された新人す!」
そこにいたのは、スレンダーで美しい女性型だった。綺麗に整えられた赤髪は高い位置で括られ、膝の下まで伸びている。四角い体の首や腕に金色の装飾品を並べていた。テーラードジャケットの胸にはこれまた金色のロゼッタが耀き、膝までのブーツは金で縁取られた皮製なだけではなく、折り返した部分にフワフワとした毛皮までついていた。紅色の手袋がケバケバしく下品だ。
施設長は満月を一瞥し、短く「そうか」とだけ返事をすると、そのまま奥の個室に引っ込んでしまった。
「……お前、名前は?」
声圧だけで気おくれしそうになりながら、満月は慌てて自己紹介しなおす。よく見れば、先輩は昨日ほど苛々していない様子だった。
「俺はラズレザフだ。今日一日俺についてまわれ。いいな。」
「は、はい。」
「いい返事だ。」
ラズレザフは満足したようにぬっと大きな手を伸ばし、満月の頭をくちゃくちゃに撫でる。
案内された部屋には制服らしく揃いのシャツと下履き、それから黒色の前掛けが
山積みになっていた。
「お前は~……これと、これか。さっさと着替えて来い。ジジババどもの朝飯が済んだところからが、俺たちの仕事になる。」
ラズレザフはそう言って前掛けを締めると、先に廊下に出てカーテンを開けて回っているらしかった。
ガサガサした質感のエプロンは使い古されて端が褪せている。よく見ると落とし切れなかったであろう染みや汚れが付着しており、ポケットが殆ど剥がれてしまっているのもあった。
「……やるしか、ないか!」
満月は両頬を叩いて服を脱ぐ。俄かに騒がしくなった廊下の向こうに、怒号と嗄れ声が満ちていた。
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