第3話


 到着したのは、想像していたよりもこじんまりとした小屋だった。たばこや宝くじが売っていそうな、とまで言ってしまうと狭すぎるが、それ三つ分があるかないかといったところである。最も近い間取りは駅のKIOSKかもしれない。

 突き出た暖簾は温かい群青色をしていた。カウンターにはいくつもの本が並び、白い塗り壁一面に張り紙がされている。読んでみれば意味を解せるその文字は、入口に建っていた看板と一緒だった。

「ちょっと待ってろよ。」

 そういうが早いか、ザモは細い路地に入って行き、店の裏に回ってしまう。満月が張り紙に夢中になっている間に、彼はあろうことかその店の中の椅子にどかりと腰かけると、さあてと言いながら腕まくりをした。

「ザモさん?」

「はは、黙っていて悪かったな。改めて、カプースコル職業相談所へようこそ。わしは所長のザモ・クークリ・サモスだ。」

「何がなんだか……。」

「何であんなところにいたかは知らないが、ニズナーになっちまった理由が分からねえ限りあそこにいた理由なんてわかりゃしねえだろう。咄嗟に会った人間に偽名を使うくらいには余裕もある。動けるようだが、暮らしのことはてんでだめと来た。そういうのは監禁されてた世間知らずか、奴隷の子孫くらいだろ。」

 しゃべりながら、いくつもの書面を取り出しては簡単に振り分けていく。それから厚さ4センチほどの本を取り出して、顔を顰めて眺めては、唸り声を上げていた。

 偽名じゃないんだけどなあとひとりごちながら空を見上げる。緑色の空の奥で、何か小さなものが飛んでいくように見えて、この世界にも鳥がいるんだなと満月は呑気に思った。

「お前さん、体力や力には自信あるか?」

「うーん、そこそこ、ですかね。」

「長時間の労働は」

「室内でしか仕事したことありませんが、それなりに。」

「資格は?」

「介護福祉士と運転免許と、ええと……。」

「ああ、そうか、悪い、ニズナーだったな、お前。大方どこかで頭を打ったか呪いでも受けたんだろうよ。郊外でそういう目に遭って野垂れ死ぬ奴は多い。」

 彼は何か考えたふうな動作をしてから、壁の一枚の紙を引きちぎって手渡してきた。

「困ったらまた相談に来てくれ。住処も仕事も無い奴ァ、ひとまずこの街じゃ餌にしかならねえ。」

「待ってくださいザモさん、これ、何の求人なんですか?」

 ザモは目元だけニヤリと笑うと、道中あんたが言ってた仕事だよ、とだけ教えてくれた。





「う、うう~!ううう~~~~!!」

「馬鹿野郎、じじい!大人しく食いやがれ!」

 その夜、乾いた鞭の音が響く宿舎で、満月は寝返りを打っていた。

 あれから街の裏手通りを抜けて、道なりに3キロほど歩いた場所に、ポツンと石造りの要塞らしきものがあった。古く寂れ、所々に蔦が這い、小石や抜けきっていない草が好き勝手に生えている。紙に書かれた『末期老人処理施設』の文字に目を疑っていたが、鉄格子の向こうから匂う施設独特の匂いに満月は嗚呼と声を漏らすほかなかった。

 正門に手をかけようとするなり、激しい音と共に挑発の老人が早歩きで飛び出してくるのが見えた。ザモと同じ種類の生物だが、眼球の色は黒ではなく群青色で、爪も長い。枯れ枝のような華奢な腕から、肉を失った肌が振袖のように揺れていた。さっと見ただけでも薄手のシャツを3枚ほど重ね着しているのがわかる。裸足の足首は元の色なのか痣なのか分からないほど真っ青になっていた。

 満月は反射で老人を抱きとめた。

 その眼はよく見るとたっぷりと水を湛え張りつめている。四方に割れた口の端から涎のような粘液が沢山溢れ、顎を伝って服を濡らしてしまっていた。掻きすぎたであろう耳元は劣化し、白く粉を拭いている。ザモと違い尖った耳が横に伸びていた。

 腕の中で暴れようにも、振りほどく力がないのか、悔しそうに首を振るしかできていない。満月は柔らかく微笑むと、そっとその背中を撫でた。

「おやおや、こんなところでお会いできるなんて。お散歩ですか?」

「…………。」

 まだ警戒は解けていないらしい。大きな口元の涎は止まったものの、奥からキリキリと歯ぎしりの音が聞こえている。しばらく背を撫でていたが、抵抗に疲れたような気配を感じた満月は、次に愛しい人にでもそうするようにして、その人の手を優しく握ると、すとんと座り込んで老人を見上げた。

「僕のこと、お忘れですか。満月っていうんですけど。」

「ワン、ゲツ?ワンゲツ……ワンゲツ?」

「……そうです!ワンゲツです。よかったあ、思い出してもらえて。僕ね、あなたに会いたくてここに来たんですよ。でも迷子になっちゃって。入口がどこか教えていただけませんか。」

 じっとその双眼を覗き込むしかなかった。本来ならその眼の色だけで状況が判断できたが、如何せん全眼なのだ。厚ぼったい瞼の奥で、気持ちがチラチラ揺れているのがよく見える。これ以上言葉を掛けるのは野暮だろう。身体をアシストするようにして移動を促せば、老人はそのままぼんやりとした表情で満月の手を引いてくれた。

 玄関の扉は観音開き式らしいが、そのサイズは3mを超え、随分と重そうだ。どこに向かう予定だったかは今となっては分からないが、それだけ決死の思いで飛び出してきてしまったのだろう。誰かを探していたのか、何を欲していたのか、今の顔には残っていない。

 扉を引き開けてみれば、丁度この老人を探していたのであろう、背の高いエプロンをした人と目があった。見た感じ、若者と判断していいだろう。

「ああ!こんなところにいたのか!ったく、手間かけさせやがって……。」

 開口一番こんなことを言われ、満月は飛び出しかけた拳を何とか老人の背後で握り耐えることでことなきを得た。不穏状態で徘徊していた人に向かって何を言っているのだろう。大きな声に委縮する隣の老人を護るように立ちながら、満月は軽く頭を下げる。

「失礼します。ザモさんの紹介で参りました。介護士の園田満月です。」

「ああ、ザモんとこの。ッハ、こんなひょろっちいの拾ってきて、爺さんもとうとうボケたか!ババアのナンパなら他所でやんな!どうせ3日も経たずに辞めんのがオチだよ。」

「……それはどうも。」

 大声の圧力で、隣の老人はまた泣きそうになっている。状況は分かっていなさそうだが、ひとまず彼からこの人を引き離す必要がありそうだった。

「この方のお部屋はどちらですか?お食事なら食堂かどこかにご案内しますが。」

「おいおい、この死にぞこないに、んな丁寧な言葉使う必要ねえんだよ!おいババア、てめえで歩けるならさっさと食堂いきな。じゃねえとおめーの分は便所に全部ぶち込んじまうからなぁ!……っておい!」

 満月はすっかり頭にきてしまっていた。老人の手を取り、人の流れる方に誘導していく。香ばしい匂いと咳の音がする方は、きっと食堂なのだろう。

「待てよ新人。勝手な真似すんじゃねえ。」

「……。」

「ここでは自分で行ける奴は自分で行く、そういう決まりなんだよ。」

「なんだ、自立支援のことよくわかってるじゃないですか。そうか。」

「ああ?」

 満月は先輩に恭しくお辞儀をし、それから胸の前に手を当てる。我々の世界では、敬意の現れだ。我々の世界では。

「……お食事時の最もお忙しい時間にお伺いしてしまいましたこと、申し訳ありませんでした。先輩はほかにもお声がけしなければいけない方が沢山いらっしゃるでしょう。実は外でこの方に施設長のいらっしゃる場所への案内をお願いしたところだったのです。お食事とは知らず、無理なお願いをして申し訳ありませんでした。なのでせめて、食堂を案内していただきたいのですが、よいでしょうか。」

 老人は始め酷く狼狽していたが、まっすぐ目を見て話す満月に気を許したのであろう、薄く頷き、歩き出す。先ほどのモーションが、挑発のそれだと知るのは、食事が済んだ夜遅い時間になってからだった。










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