第2話


 小一時間も歩いただろうか。抜けてしまえばあっけないもので、おそらく田舎のちょっとした丘か林だったのだろう。ザモ曰く、これから向かうのはちょっとした町らしい。嘗て英雄たちの宿場町として栄え、今は地方庶民のベースになっているらしい。見えてきた緑の屋根と淡くくすんだ塗り壁、そして舗装された道が疲れを少し和らげてくれる。

 やがて見えてきた看板には、初めて見たような文字が見えた。なんとなく、カプースコルと読める。

「……、」

「よう、ザモ。何かまた拾ったのかい。食いもんじゃねえもん拾って楽しいのかよ。」

 そう声を掛けてきたのは門番のようだった。金属の帷子を纏い、その頭部を西洋の兜のようなもので覆っている。なんだっけ、歴史資料館で見たな。スパルタ兵のそれだったか。

「うるせえ。何拾おうと俺の勝手だろう?」

「ッハ、違ェねえ。ま、ほどほどにな。」

「ザモさん、今の人は?」

「あいつはゴウト。俺の古い友人だ。日がなああして門の前で立ち呆けて、日が暮れたら酒を飲む、それだけの奴だよ。」

「はあ……。」

「さ、ついたぜ。ここがカプースコル市場だ。ここの通りを真っすぐ抜けていくが、まずは腹ごしらえといこうじゃねえか。」

 ゴウトから目を離し、漆喰であろう白い壁の通路を曲がると、そこからは縁日のように並んだ出店が所狭しと並んでいた。そして同時に、ザモと同じ形状の生物が、まるで人間と同じように、通貨をやり取りし、商いに興じている。屈強な個体や華奢な個体、小さなものまでいるようだった。四方に裂けた口の粘膜部分が尖ったり捲れたりするのは喋っているときの発音のそれなのかもしれない。

 吊るされている肉や果実らしきもの、装飾品や日用品をぼんやりと眺めるが、特段違和感は感じない。とはいえこの状況だけで、満月のいた21世紀の日本でないことだけは確かだった。高校の英語で3度の赤点を取った男だ。当然海外旅行など行ったことはなかった。NHKのドキュメンタリーで流れる西欧諸国の都心のマーケットで、映画俳優が颯爽と買い物をしていたのを思い出す。カプースコル市場は何となくそれに似ている気がした。

 ザモが足を止めた屋台は軽食屋をしているらしかった。店主はむっちりとした指を振ってザモと何かやり取りをしている。彼の鉄板の奥に見えるのは食材の箱らしく、貨幣を受け取った店主はそこに腕を突っ込んでガサガサやって、何か茶色いものを取り出し鉄板に転がした。

 満月は少し離れて店を眺める。アメリカンドッグの束みたいな肉が暖簾の傍にいくつもぶら下がっており、その先にはまじないのようなものが書かれた布が巻き付けられていた。

「ザモさん、これは何ですか?」

「これは……まあ魔除けみてえなもんだよ。ここいらじゃ有名さ。」

「へえ。」

「こいつを天気のいい日に寺院の木にぶら下げて、呪文を唱える。そして、雨が降ったら家の中にそれをぶら下げて、呪文を唱える。そいつを護りたいもんに結ぶと、神さんが家と護りたいもんを護ってくれるんだよ。」

「はあ……イワシの頭みたいなもんですか」

「お前は何を言ってるんだ?」ザモは頭を振る。「イワシみたいな巨大魔獣の頭なんぞ玄関に飾ってみろ。二度とカプースコルの街には入れねえよ。」

「巨大魔獣、ねえ?」

 満月の脳裏に浮かぶひ弱い魚のミイラに似合わない形容に、今度は満月が首を振る番だった。

「ほらよ、お待ちどうさん。」

「ありがとな。ほれ、お前も食えよ。」

「ああ、ありがとう……ワッ!」

 渡されるなり、満月は大きく目を逸らしてしまった。茶色の丸まるとした肉がピタパンに似たものに巻かれている。にゅっと突き出た脚と空洞のように開いた口、恐らく捌く際にくりぬかれたであろう内臓の部分には、葉のソースがぎっしりつまっている。但し、顔部分らしきところには大きく突き出たカエルのような目が並んでじっとこちらを見ていたのだ。

「ざざざざざ、ザモさん、これ、なに!?」

「モモスだよ。知らねえのか。ほれ、そこにぶら下がってる肉だ。食ったことねえとは言わせねえぞ。俺たちモロにゃ普通の食材だ。煮込みにしても焼いても美味い。それによく動かされた筋肉に歯ごたえがあるから、悪くねえ味だと思うがな。」

「ももす……。」

 じっと見つめると、それと目が合う。焼かれても尚ぬるりとした表面を保っているそれが妙に喜色悪くて、満月は固く目を瞑ってピタパンの端だけを齧った。

「すっぱ!」

「はあ?皮が酸っぱいのは当たり前だろ。本当にニズナーだな。さきに本部より療養所にぶち込んだ方がよかったか?」

 乱暴ながらも心配してくれている声色に、満月はいえいえと首を振るしかできない。これが夢の中なら、味覚に異変があっても何らおかしくはないだろう。変な味のものの夢を見るのはストレスが溜まっている証拠に違いない。今度の休みには日帰りで温泉にでも行けばいいのだ。

「サノダー、お前もしかして、オボチじゃねえだろうな?」

「いやっ、ええと、オボチって?」

「肉食わねえ連中のことだ。オボチばっかりの村が山の向こうにあると聞いたが、まさかお前、そこの出とかじゃねえよな?」

 ザモは息を潜めてそう言う。その据わった目の圧力に負け、満月は首を振るしかできなかった。

「いや、ええと……オボチではないんですけど、これを食べたことが、なくって。」

「挟み物を食ったことがないのか。」

「え、ええ……。」

「そうか。まあ口に合うかわからねえが、うまいぞ。食ってみるといい。」

 食ってみるといいったって。

 途方に暮れて手の挟み物を見れば、つぶらな瞳がこちらを除き返してくる。照りのついたタレは、確かに芳醇で甘じょっぱいものだった。

 満月は目を瞑る。そして一思いにがぶりと齧りつき、目を丸くした。

「本当だ、美味しい……!」

 口いっぱいに染み出てくる肉汁は牛の脂身のように甘く、香草のような香りがした。中のソースは見た目は緑だがサルサのような味がする。時折ある卵のように見えるプチプチはおそらくトマトの中身のようなものなのだろう。甘く諄いタレだからこそ、パン部分の痺れるほどの酸味が味を引き締めている。先ほどまで恐れていた目玉部分は生白子のような柔らかさで、口の中で弾けて喉に落ちていった。

「はあ、よかったぜ。あんたがオボチだったら俺ァ、あんたをここから追い出すところだったんだ。」

「オボチだと何かあるんですか?」

「ハハ、連中はこの街出禁なんだよ。一部の過激派が、精肉屋を壊す暴動を起こして以来な。」

「そんな酷いことが……。」

「ほら、暗い話はいいからよ。今はそれをくっちまえ。お前はこれから役割を貰いにいくんだからな。」

「ひゃふあぃ?」

 咀嚼しながら聞くと、彼は最後のひとくちを食べきるところだった。手前の歯と奥の歯を掃除するように長い舌が回る。最初あんなに容姿におびえていたのに、この短い時間ですっかり見慣れてしまった。寧ろその目元の皺や腕の動き、歩行時の癖まで確認してしまっている始末だ。職業病というのも、夢の中でくらい忘れたいものである。

「まあ、行ってみればわかるさ。

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