ISEKAIGO ―異世界介護士奮闘記―

@obedach

第1話

 草の香りで目を覚ましたことがあるのは後にも先にも人生で一度きりだ。小学校のボーイスカウト活動の一環で行ったテントの中で、土と草の湿った冷たさが寝袋越しの肌によく染みた。ゲーム機も漫画もテレビもない。そっとテントのチャックを降ろして見上げた空は遠く、雨上がりの匂いがした。キンと静まり返った星空はすっかり西の方に追いやられている。僕は寒さに身を震わせて、もう一度寝袋にすっぽりと潜ったっけ。

 一方今は身体の全体が暖かい。軽く手を握り、開く、指先にツルツルとした細いものが沢山滑り、それから少しあたたかいふかふかとした何かを掴んだ。ぎゅっと握って中の冷たさを確かめる。ああ、そうだ。こういう匂いだ。こういう、山の。

「ーー山の?」

 勢いよく起き上がると、目線の先には緑に囲まれた緑色の空があった。バサリと遠く、小さな点が飛んでいく。鳥か、飛行機かの判別は寝起きの目には難しかった。差し込む光は穏やかで心地よく、安っぽい頭が冬に入るコンビニみたいだなと考えた。膝と手を払い、ぼうっと息をつく。ありがたいことに靴だけは履いていた。

 いつの間にこんなところに来てしまったのだろう。木々に囲まれ、首を傾げる。胡座をかいてようやく自分が帰宅した時のままの格好であることに気がついた。

 チノパンにラフなパーカー、ぼろぼろのスニーカーはもう白から随分かけ離れてくすんでいる。ここが夢の中ならきっと、自分は帰宅早々玄関で眠ってしまったに違いなかった。

 園田満月。自分の名前を反芻する。仕事は介護士で、家族は両親と祖母、それから姉が一人。昨日食べた昼食はコンビニの海苔弁当で、最近の高い買い物はソーシャルゲームのガチャで天井まで回したキョーコちゃんだ。ペタペタ触った顔にズレた眼鏡がぶら下がっており、大きな黒いフレームを戻すと周囲はよりはっきりとその輪郭を取り戻した。

「記憶の混濁はないみたい、だな?」

 次に満月は体を検分した。幸い怪我もなく、何処かから落下したような衝撃の跡もない。ポケットの中にあったのは溶けかけたのど飴とクチャクチャのレシート。それに包まれたお釣りの37円だ。残念ながらスマートフォンもタブレットも、財布も見当たらない。

「夢……、か。感触がリアルだな……。」

 彼は慌てることなく立ち上がると、改めて周りを見渡した。どこまでいっても山林のようだったが、緩やかな傾斜を感じることからそちらが谷なのだろう。獣道は傾斜方向とはやや垂直気味にあり、満月の前後に伸びていた。人が頻繁に踏み歩くような跡は見当たらないが、おそらく何かは通るのだろう。草木の他に花らしきものは見当たらなかった。ひときわ大きな大樹には蔓植物が絡みついており、ふてぶてしくも葉を揚々と広げている。くどいほどの緑色に、満月は少し目をこすらなければならなかった。いくら目に優しい色だからって、世界中がそれ一色なのはあんまりだ。

 幸い呼吸や行動に支障はないようだった。声も出るし、目もよく見える。延々と続く木々の向こうに一つの影を見て、満月はごくりと息を呑んだ。

 普段の夢ならここで、職場の人や友人が声をかけてくる。そして視点は回転して見知った街並みになり、気がつくと夢の中でも仕事をしていた。さあこい、ここで、そうだな、看護師の真知さんとか出てこい!

 ガサ!

 強烈パーマの既知のおばさんの登場を期待していた割に、自分の身体はあっけなく硬直した。振り向いた先には影がぬっと立っており、それが左右にゆらゆらと揺れている。たぶん、徐々にこちらに近づいてきている。

 満月は音を立てないようにゆっくり、ゆっくりと後退りした。SNSで見たことがある。山の中でもしも人間サイズの影を見たら、まず熊を疑っていいと。高鳴る心臓が喉からオエッと出そうになるのを必死で抑え、先程の大樹の裏に移動する。息を殺したいのに、フウフウと熱い息が漏れてしまうのは情けなくて仕方がない。それでも、恐怖は満月の背部を撫でるようにしてからザッと温もりを奪い、彼の涙腺を緩ませていた。

 影はやがて、草の根をかき分けてすぐそばまできたらしかった。

 長く伸びた影が、大樹の根の凹凸に合わせて変形する。僕が固く目を瞑るのと、発語が聞こえるのは同時だった。

「ああ?なんだって、こんなところにモロがいんだ?」

 落ち着いているしゃがれた高い声だった。恐る恐る開いた目の先に並ぶ靴はブーツによく似ている黒い形状をしていた。そこから伸びるズボンの布の質も、そこから手前に伸びている影も人の形にそっくりだ。

 手袋に包まれたその両手に武器らしきものが無いことを確認し、満月は緊張を解いて振り返った。

「……モロ?」

「んだよ、口利けんじゃねえか」

 安堵に口を緩める。挨拶を返そうと思った。男の声だ、と思った。おそらくおじさんかおじいさんあたりだろう。さっと見たその相手の目の部分は、黒い虚があった。

「ひっ……!?」

 それは人間に非常によく似た形状の生命体だった。薄めの色の肌に、頭部の横に突出した耳、位置は同じだが口部分は縦にも横にも裂けている。三角に開いた中心の穴は鼻なのだろう。そして、目らしき場所には5cm大の丸い虚が二つ並んでおり、瞼のような薄皮が時折瞬きのようにパチパチと往復した。虚は黒に見えるが恐らく認知できないだけでちゃんとした眼球があるらしい。薄緑の髪は長く後ろに延ばされ首の後ろで一つに束ねられていた。

「……どうした、ボウズ。ぼうっとして?」

 その言語はよく理解できた。この世の発音ではないけれど、満月はよく知っている。英語でもなければ、日本語でもない。それでもひどく懐かしく、あたたかかった。

 萌黄色のワイシャツと機能性の良さそうなポケットだらけのベストの先、細く枯れた喉が見える。自分の知る限りその質感は老人のものだ。

 老人はふうむと首のあたりを擦ってから僕に手を差し伸べていた。虚だと思っていた部分が細められる。その奥でゆらりと光る何かをとらえ、満月ははっとして慌てて自力で立ち上がった。

「なんだ、立てるんじゃないかよ」

「……」

「ボウズ?」

 緑の空が広がっている。雲も、森も、土の匂いも知っているものだ。

 嘗てフロイトが言ったように、夢は曖昧な部分や歪曲した部分がある。自分の無意識下の願望や意識によってそれは都合よく展開を重ね、文明社会で抑圧された強い感情に揺さぶられては変化する。暗喩的に表現することもあれば、ほぼ実体験ということもあるだろう。今回は前者なのかもしれない。

 よし、僕、起きてくれ。起きて歯を磨いて、誰が不倫したとかどこかが不正したとかのニュースを聞いて、充電できてないスマホに落胆しながら出勤するんだ。だって今日は、早番なのだから。

 朝は片頭痛で職員を無視する輝義さんにそっと声をかけて、くたくたになるまで早朝から歩行訓練をしている昭雄さんに精が出ますねとお茶を出して、持ち物を何度も確認しているテルさんを部屋まで迎えにいかなくちゃいけない。幸子さんと明子さんが通じていないお喋りに花を咲かせていたらご飯の知らせをして、まだきっと寝ているであろう花見夫婦の部屋の扉をノックするのだ。皆の朝ごはんとトイレ誘導を済ませたら外出者の対応をして、そして……!

 おはよう世界。おはよう日常。おはよう僕!

 強く念じて目を開けたが、満月の前には先ほどの老人がぽかんとこちらを見上げている。

「あんた、具合でも悪いのか?モロのくせに弱っちいなあ!」

「うーん、この夢は長くなりそうだ。」

「はあ……?」

 満月はばりばり頭を掻いた。いつもの髪の質感だ。きっと鏡を見れば、渋栗色のゆるい天然パーマが好きな方に跳ねているだろう。こうなったら起きるまで、夢の中で行動するしかなさそうだ。

「……すみません、少し寝ぼけてたもので。僕の名前は園田です。園田満月。」

「サノダー・ワンゲツ?」

 老人はぷっと吹き出した。

「お前、冗談はほどほどにしておけよ。いや、ああ、マジで言ってんなら謝るが。あー、フフ、おいおい……」

「え、な、なんですか……」

 彼は肩を小刻みに震わせている。漸く落ち着いたとき、彼は胸の前に人差し指を出した。

「ザモ・クーだ。」

「へえ、変わった名前だね。」

 握手にと出した右手に、老人は首を傾げる。そして、あのなあ、と胸の前の人差し指を揺らした。

「……やっぱお前、ニズナーなんだな。」

「ええと?」

「挨拶ってのは、こうやんだよ、サノダー。」

 そう言って彼は満月の手を掴んで、人差し指の背同士をぶつけ合う。間接同士を擦り合わせると、投げるように解放した。

「はあ……。」

「なんかわかってなさそうだが、まあいいか。ここじゃあ、挨拶はそうするんだ。お前も小せェ頃とかに昔話で聞いたことあんだろう。武器同士をこう、交わす話の。」

 全く分かっていなさそうな満月に、老人は哀れみに満ちた表情を浮かべた。

「そうか、そうか……まあいい。こっちに来い。ニズナーでもできることがあるだろうから。」

 ザモは先ほど発見した獣道に向かって歩いていく。

「ああ、ええと!」

「どうした、置いていくぞ。」

「は、はい!」

 転びそうになりながらもその後を追う。暗いと思っていた森は、想定していたよりもずっと明るかった。










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