アンドヴァリナウト

「ここからが本題だが、今すぐにでもサリエルの使徒のように人並みはずれた能力を得られるとしたら、君はどうする? その力を望むか?」


 思考の外から投げられた質問に、アサミは更なる戸惑いを浮かべる。

 追い討ちをかけるように、ローライトはポケットから何かを取り出してアサミに投げ渡すした。受け取ると、それは透明の液体が入った注射器だった。


「アンドヴァリナウトという。俺が独自に開発したウィルスだ。それを身体に入れれば、集中する際に枷となる人間の意識を一時的に消せるようになる。訓練をせずとも、強制的にサリエルの使徒の連中と同じ状態になれるわけだ」

「こんなもんが……人の近寄らない砂漠の中心にいるんは、これを作るためなんですか?」

「極秘事項だからな。敵国のアーケディアに嗅ぎ付けられれば、エウトピアが窮地に陥る恐れがある。それほどの代物だ」

「ここにいるローライト師団長の部下達は、これを知ってるんですか?」

「全員が使用済みだ。君も一度くらい、隊員が異様な集中力を発揮している姿を見たんじゃないか?」


 さりげなく放たれた一言が、アサミが最も尋ねたかった疑問に対する明白な回答だった。

 アンドヴァリナウト。ローライトの開発したというウィルスが、マリーや他の隊員の見せた生気の失せた瞳の原因なのか。彼女らの放つ不気味な気配がローライトに危険を及ぼす想像は的外れで、他ならぬローライトが彼女らの異常の発端だった。

 手のひらには一本の注射器。体内に注入すれば、自分も同じように正常なレールから外れる。傍から見た限りではとても正常とはいえない姿だった。本当に、使っても支障はないのだろうか。


「不安か? だが使えばサリエルの使徒とも互角に戦える。親友の仇を取りたいならば使用を勧めるが、その気がないならやめておけばいい。使えば人間の枠から外れるのも事実だ。人でありたいか、仇を討ちたいか。ここで選べ」

「今ですか?」

「悪いが使わなければ足手まといになる。アサミくんに敵への深い憎しみがあるとわかったから俺は誘ったんだ。その気持ちが薄れて戦う気も失せたなら、どこかの部隊に異動してもらう」


 再び手元の注射器に目を落とす。

 サリエルの使徒、特にルチルを殺したエリゴスへの憎悪は、正直なところ彼に窮地を助けられたこともあって薄れていた。寝返ったメリアに対しても、なんとしてでも自分の手で、と思うほどではない。彼も彼女も、無闇に人を殺しているわけではない。考えがあって、そのために行動しているだけだ。


 ――なに考えとんの?


 敵対する組織を胸中で擁護した自らを軽蔑した。

 メリアはともかくとして、エリゴスを許していいはずがない。

 私はルチルが誘ってくれたから軍に入った。ルチルの力になりたかったから、当時教官だったメリアの厳しい指導に耐えて実力を上げた。命を失う危険のある仕事だから、せめてルチルの身くらいは守りたかった。


 エリゴスは、全てを壊した。彼は罰を与えられるべきで、その罪は人殺しなんて重罪なのだから死をもって償うべきだ。執行人は誰だっていい。たとえば、アサミ自身でも。

 アンドヴァリナウトを使えば、エリゴスにだって勝てるかもしれない。

 アサミは冷たい感触のする注射器を手にとって、躊躇いに顔を背けて針の先端を首筋に刺した。痛覚が鋭く刺激される。


「サリエルの使徒がどこにいるか、調べはついたんですか?」

「ちょうどさっき特定した。アサミくんの準備が整えば、部隊を編成して向かってもらうつもりだ」

「そんなら、待たせるわけにもいきませんね」


 一息に、アンドヴァリナウトを身体に注入した。

 空になった注射器は、手のひらのなかで微細な光と変わり、指の隙間を縫って霧散した。

 体内に異物が入った感覚はあったが、意外にも身体に変化は感じなかった。両手を握ったり閉じたりしてみるが、思い通りに動くし、思い通りにしか動かない。

 疑わしい表情を浮かべるアサミに、ローライトは頬を緩める。


「どう考えていたのかは知らないが、常に感覚が変わるわけじゃない。あくまでも集中している間だけだ。変化を実感するのは戦場に出てからだろうな」


 そう言って、彼はそばで控えていたアルテミスに振り向く。彼女の宝石のような水色の瞳に、一転して決然とした表情を浮かべるローライトが映る。


「では、サリエルの使徒がどこにいるか、教えてもらおうか」

「特定の人物の居場所を教えることはできません。場所がわかっているのであれば、それがどこにあるのかはお伝え可能ですが」


 直球で尋ねるローライトに、アルテミスは即答した。

 当然の反応だった。管理AIであるアルテミス、アポロンはラストエターニアの構成、住民の全てを把握しているが、それを住民に教えれば犯罪に悪用されるのは想像に易い。だから、道案内程度のことはしてくれても人は探せない。誰がどこにいるか、住民全員分の情報を把握しているがゆえに。

 しかしローライトは続けた。


「おかしいな。君は昨日、ベアル=カルセドニーの位置をサリエルの使徒に教えたんじゃないか? もしかしたら、マナフがいる惑星をサリエルの使徒が知っていたのも、君の仕業か?」

「後者は違います。メリアズール様がアーケディア軍と手を組み得た情報です」

「前者は認めるのだな」

「否定はできません」


 ちらりと一瞥したローライトを、アサミは見開いた目で見据えた。

 どうしてエリゴスがあの場に駆けつけられたのか疑問だったが、合点がいった。標的は、正確にはベアルではなく、一般人が殺戮された事件の犯人だったのだ。

 アルテミスが教えたのは、ベアルの家がある住所ではない。特定個人の座標位置だ。自らが教えられないと拒絶するはずの、本来は秘匿される個人情報。


「何故教えた? サリエルの使徒に加担しているのか?」

「サリエルの使徒の目的は、私に与えられた使命と一致します。人々が永遠の命で望みを叶えること。永遠を望まない人にとっては、死が望みであると私も考えています」

「ならば、俺が君の願いに協力するといったらどうする? 俺はいずれエウトピア軍の頂点に立つ。その俺が協力すれば、無駄な命が失われず、平和な環境で人々は夢を追える。追えなければ、俺も安楽死を視野にいれて救済の方法を考えよう」

「サリエルの使徒と手を結びますか?」

「奴らは生きる目的の有無に関わらず、抵抗する者も排除している。俺ならばそうはならない。戦争を終わらせる力がある。だが、サリエルの使徒が今後も戦争に介入してくるならば、奴らが一番の障害だ。できれば真っ先に潰しておきたい」

「私にサリエルの使徒と手を切って、ローライト様と手を結べと?」


 抑揚のない声で喋るアルテミス。感情は持たないはずだが、声色には疑念が混じっているような気がした。

 彼女の確認に、ローライトは首を横に振る。


「そうじゃない。別に奴らと手を切ってほしいんじゃない。ただ、奴らの居場所を教えてほしいだけだ。そのあとで、君は勝ったほうにつけばいい。どちらにしても、ここで俺達に倒されるようならサリエルの使徒に君の願いを叶えるだけの力はない。違うか?」

「……」


 焦点が定まっているのか判然としない眼差しで、アルテミスがローライトを見つめる。真意を探っているのか。毅然としてローライトは彼女の視線を受けて立つ。

 結ばれていたアルテミスの艶のある唇が、ゆっくりと動いた。


「わかりました。これも必要な試練でしょう。ただし、ローライト様だけが秘密を知るのは不公平ですから、居場所を伝えたことはサリエルの使徒にも情報展開します。構いませんね?」

「構わない。もとより奇襲するつもりはない。真っ向から挑ませてもらおう」

「でしたら問題ございません。現在サリエルの使徒が拠点にしているのは――」


 アルテミスが伝えた敵の拠点は、教えられなければわかるはずもなかった。昨日までいたルチルの家があるセンリョクだったことも驚愕だが、なによりも潜伏先が反則的だった。

 これで、決着をつけられる。

 あとは戦うだけ。特殊な力に頼る結果となってしまったが、自分の力だけではどうにもならない場合もある。何だろうと必要ならば利用する。矜持を捨てきれなければ、望みを叶えるのは難しい。どんな世界であってもそうだ。


「ローライト師団長、指示をください」

「ああ」


 進軍を促すアサミの言葉に、ローライトは頷いた。


「君の活躍を期待している」


 その気持ちはありがたいが、アサミは彼のためにも、自国のためにも戦うつもりはない。

 亡き親友のため。彼女の仇が討てるのであれば、永遠の命も惜しくはない。生きる目的を果たそうとするなら、死くらいは天秤にかけなければ釣り合わない。

 体内に入ったウィルスの影響か、仇を討つ行為以外がどうでもいいと思えるほど、アサミを構成する感覚の全てが戦いを求めていた。

 視界にある世界が、少し暗くなった気がした。

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