勝利の代償は

 標のない砂漠の海を越えた先、ローライトの部隊が駐留する拠点に辿り着いた。アサミをおろすと、役目を終えたマリーはそのまま車を運転して去っていった。アサミとしては好都合だ。彼女の異様を目の当たりにして以降、同じ車内にいるだけで呼吸が苦しかった。解放されて、久々に肺が空気で満たされた気がした。

 あの生気のない瞳は何なのか。ローライトは周りの兵士の異常を知っているのか。昨日の件を改めて報告する必要もあるから、アサミは脇目も振らず詰所に向かう。

 詰所の様子に特筆すべき変化はない。各地の戦況を映す中央のモニターの前で複数の兵士が議論していた。ローライトの姿はなかった。さっと部屋を見回したが、あとは黙々と作業をしている人ばかりで彼は見当たらなかった。


「誰かお探しですか?」


 急に隣からかけられた声に、思わず身を引いた。

 温厚そうな顔立ちの男性は、アサミの幽霊を見たかのような反応に苦笑した。目尻の垂れた優しそうな瞳には、困った色が湛えられている。


「えと、すみません。驚くつもりはなかったんやけど……ローライト師団長は上でしょうか?」

「さっき上がっていくのを見たから、たぶんそうですね。私のほうこそ申し訳ない。次回から、人に声をかけるときは気をつけます」


 一礼して、彼は部屋の隅のほうへ歩いていった。

 その隊員の男は異常を見せなかった。しかし、マリーも常におかしいわけではない。スイッチが入る条件でもあるのだろうか。だとしたら、彼も異常を発症していないとは言い切れない。

 もちろん、それはローライトも同じ。

 そして、アサミ自身も対象に含まれる。そう自覚すると、彼女は背筋が寒くなった。


 このままローライトに会いに行ってよいのか。彼直属の部隊の人員に起きている異常が、彼に害を与えるものかは不明だ。ただ、あの意思の失せた瞳から察するに、明らかに自我は消えている。自分を制御できない状態にあるとしたら、ローライトに危害を加えないとも限らない。

 話そう。既に知っているなら、どういうことか説明してもらう。知らなければ、上司である彼の指示に従おう。二階の廊下の突き当たりに向かいながら、アサミは取るべき行動を決めた。

 閉ざされた師団長の部屋の前で、呼吸を整える。心臓がうるさいけれど、どうしようもない。声が出るよう軽く咳払いをして、木材で作られた扉を叩いた。


「入ってくれ」


 間髪をいれず承諾が返ってくる。喉を整えたはずだが、声が掠れてうまく返答ができない。一階にも届く大声でなら返事ができそうだが、これからする話題的にあまり目立ちたくもない。失礼を承知で、彼女は黙したまま音を立てぬよう扉を開いた。

 

 ローライトは椅子に座らず、室内の中央に立って入口を見ていた。彼の隣には、水色のドレスに白いエプロンを付けたアルテミスがいた。彼女は入室してきたアサミに頭を下げた。


「よく無事に帰ってきてくれた。あんな目に遭うと知っていれば、外に出るのを許可しなかったんだが」

「私も完全に油断してました。まさかルチルの親父さんが人殺しだったなんて……ルチルが不憫で言葉もありません」

「まったくだ。しかし一つ謝らなければならないのは、センリョクで先日大勢の民間人が消失した事件があったにも関わらず、アサミくんに共有しなかったことだ」

「それは向こうにいた兵士に教えてもらいました。師団長は悪くありません。でもまさか、私が事件の犯人に会いにいこうとしてるとは思わんかったでしょうけど」

「後味はよくないが、結果的に被害の拡大を防げたので良しとしようじゃないか。休暇を与えたつもりが、より体力と気力を奪ってしまい申し訳ない」


 謝罪するローライトに結構だと断るが、彼はなかなか頭を上げてくれなかった。

 例の話を切り出すタイミングを見失ってしまった。アルテミスが消えずに残っているが、彼女には聞かれても問題ない。この世界の案内役として存在するAIは、人間の起こす全てに対して中立を貫いている。誰かの秘密を知っても誰にも漏らさない絶対の傍観者。そういう仕様だと、管理AI自身が教えてくれた。

 顔を上げたローライトは、決然とするアサミの顔を見据えて表情を固くした。


「君はサリエルの使徒に勝てるか?」

「えっ?」

「サリエルの使徒のエリゴスという男に救われたんだろ? なら、先のマナフがやられた戦闘に続いて、再びその男の戦いぶりを目撃したはず。奴は敵だ。勝てるのか? 勝てないのか?」


 答えられなかった。答えはわかりきっているのに、口にしたら認めてしまうようで黙るしかなかった。

 だが、答えない選択こそ、何よりも明瞭な意思表示だった。


「わかっているようだから遠慮しないが、今のアサミくんではサリエルの使徒には勝てない。君が出かけている間に、先の戦闘で記録されたエリゴス、バレットの映像を確認したが、実力が桁違いだ。そこらにいるエウトピアの兵士では、何百と束なっても無力だろうな」

「そんな馬鹿なことっ! いくらなんでもそれは言いすぎでは?」

「肉眼で追えない動きをする彼らを捕まえられるか? 無理だ。勝とうと思うなら、まずは敵の強さの理由を知らなければならない。彼らは教えてくれなかったか?」


 ローライトの問いかけに記憶が刺激されたのか、エリゴスの喋っていた風景が脳内で再生される。


「なんか、人間であるのを捨てられないからとか、そんな感じのを言ってたような……」

「そこまで喋ってくれたのか。ならば話が早い。アルテミス、彼女にもさっき教えてくれた内容を頼む」


 ローライトの妙に早い理解に違和感を覚えたのも束の間、急に話を振られたはずのアルテミスが、出番を待っていたかのようにアサミに向き直った。水色のドレスの裾がふわっと揺れる。


「サリエルの使徒に所属する方々は、自らが人間であることを否定しています。バインドエリア内であっても目にも留まらない速さで移動できたり、信じられない膂力を発揮するなど、ここが現実世界ならば不可能な動作を行えるのはそのためです」

「そんな単純やないやろ。そんなんだったら誰でもできるやん」

「誰にでも可能です。アサミ様に限らず、戦闘経験のない一般人も例外ではありません。サリエルの使徒とそうでない人々で異なるのは、極端に言えば一つだけ。アサミ様がエリゴス様より聞かされた話のみです」

「うちらが、人間であることにこだわっているから……?」


 だからといっても私は人間だ。メリアやエリゴス、バレットだって同じ人間であるはず。見た目は関係ないのか。人にできない技をやってのけるのだから人ではない? 人ではなくなるとは具体的にどういった状態を示すのか、アサミにはまだわからない。


「たとえば、人間は赤子の状態では四足歩行します。やがて体重を支えられる筋力をつけると二足歩行を始め、以降は四足で歩かなくなりますよね。やろうと思えば誰でも四足で歩けるのに、誰もが二本足で歩く方法を選びます」

「そのほうが便利やから、そう進化したんやろ?」

「真相は定かではありませんが、私も二本足のほうが優れているとは思います。ですが、赤子が二本足になる理由は別です。大人たちが二本足で歩いているから真似をするのです。同じように、足だけでなく腕も獣のように発達していたら、移動は四本足のほうが速くなります。しかしそれをしないのは、人間が二本足で歩く生き物だから。より優れた能力を得られるとしても、人間の定義から外れる行為はできない。無意識のうちに取捨選択をしているのだと思われます」

「ほんなら、サリエルの使徒の連中は違うっていうんか?」

「サリエルの使徒の方々は進化しました。人間としては退化と呼ぶのかもしれませんが、赤子が二足歩行を覚えるように、肉体がデータの集合体に変わった事実を受け止め、人間に可能な行動の全てを見直して最適化したのです。データの集合体となった身体にとって、あるべき姿とは何か、より優れた身体の使い方はないのか。その探究心に、肉体であった頃の名残は介在しません」


 肉体ではできるはずのない行為が可能なのは、もはや肉体など存在しないと骨の髄まで理解しているからなのか。そんなことが可能なのか。アサミは、自分はどうなのかと振り返る。

 この手も、この足も、全て人のものだ。人の形をしている。この感覚を保ったまま身体能力を何十倍に押し上げれば、身体がもたない。脚力でいえば自動車と同等かそれ以上の速度で走ることも可能なのだろうが、それを体現している自分を想像できない。


「難しいと感じているでしょうが、要は常に電子化している状態になるということです。電子化は軍の訓練で誰でも習得しますよね?」

「電子化は目的の場所を思い浮かべたら勝手に身体が移動するんやから、電車や飛行機と同じ移動手段に過ぎないやん。慣れれば、バインドエリア外の戦闘に活用できるけど、奴らは生身で異様な身体能力を発揮しとった」

「訓練して境目をなくしたのです。長い時間をかけ、意識を改めて」


 自動車に乗っている間、その移動速度に違和感は覚えない。サリエルの使徒は、生身で同等の速度で移動する違和感を排除したのか。データの集合体となった身体ならば、やろうと思えば不可能は少ない。ただ、それをできないと決め付ける人間としての意識だけが足枷となっている。

 理論はわかったが、やはりできるとは思えない。少なくとも、説明を聞いたところでエリゴスの見せた人並み外れた動きを未だに信じられない自分には。

 ふたりの会話を見守っていたローライトが、困惑を隠せずにいるアサミに近寄った。

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