危険区域

 しばらく歩き続けて、何日がたったか。日の目を見ることはあるものなのか。そんなことを思いながらより深いところに来たようだった。目の前の古ぼけた看板が目に入る。

「おい、ここは相当深いぞ。立ち入り禁止区域じゃないか」

「え?ああ、その看板のことですか。いつの話をしてるんです」

アドニスはなんの躊躇いもなくそこを通り過ぎた。

 まさか、そんなわけがなかった。記憶が正しければ、このダンジョンにも危険区域の一つや二つあったはずだ

「嘘だ」

「嘘じゃありません。ここにはもう魔物も冒険者も減少したので危険区域じゃないんです」

「誰がいつ決めたよ」

「たった今、私が」

「んなこたろうと思った」

そう言いつつ、俺もそこを通り過ぎた。あかりで照らしているはずの闇が、次第にひかりを蝕んでいるように見えた。


 闇は一層深くなり、次第に風の音すら聞こえなくなった。こんなところに居れば、当然気分も沈んでいくものだ。過去を振り返るも、何か光のようなものは見えなかった。

「……逃げ続けるのか、俺ら」

なんとなく、不意にそうこぼした。

「なにを今更。だからここまで来たんでしょう」

「まあな」

「でも本当は、別にいつでも帰れるんですよ。特に私は」

「どうして」

「帰ったって、言わなければいい。人を殺した?食料を盗んだ?危険区域に入った?それを誰が見たっていうんです。私はなーんにも悪いことはしていません」

「流石に悪いことは悪いことだと思うが……まあ、言いたいことはわかる」

「あなたが直すべきは、まずその一丁前に掲げたその罪悪感でしょう」

振り向きざまに彼がそういった。彼は時として残酷な表情を浮かべる。

「いや、まあしかし……」

「あなたが逃げるべきは人とか、罪とかからではありません。あなた自身の持つ罪悪感からなんですよ」

前にも、後ろにも闇だった。それは今の自分と言っても過言ではないのだろう。私が口をもごもごしている間に、彼は遠くに行ってしまう。私は、アドニスの後を追いかけるしかないのだった。

「自分自身から、か……」

また、そう呟くしかなかった。


 「ここを今日の寝床にしましょう」

しばらく歩き、寝床を作ることにした。火を焚き、寝床の準備をしているアドニスを、私はただぼーっと見ていた。

「なにしてるんですか」

「ん、ああ、いや、なんでも」

アドニスは寝床の毛布を広げながら、大きなため息をついた。

「まったく、決意があるのかないのか。過去は過去でしょう、もう変えられないんですよ。いつまでも女々しく悩んでいる場合ですか」

そう説教がましく言われると、癪に障るというものだ。

「全員が全員お前みたいな思考じゃねえっつうの。俺は何人殺めたとしてもお前みたいに能天気ではいられないね」

そう言うと、また彼も気に食わなそうな顔をした。

「あれを人間としてカウントするのすらおかしな話でしょう。だいたいそんな考えのじてん、で、……」

なんだ。彼の顔が赤から、だんだんと青ざめていくのがわかる。また目線も俺の顔からどんどんそれていく。まるで俺の後ろに何かがいるような……。

「伏せろ!」

聞き馴染みのない命令口調。思わず体が動く。頭上から轟音が響いたのは、その直後だった。地面が揺れる。壁からパラパラと小石が落ちてきた。上では、あろうことか、壁に斧がめり込んでいた。非現実な状況。俺は息を飲んだ。

「くっ……!」

奇襲だ。急いで前に倒れ込み、体勢を立て直す。剣を引き抜き、その斧の持ち主に剣先を合わせる。また例の冒険者か、はたまた盗賊か。焚き火に照らされ、その巨体が顕になる。信じられないほどの巨漢だ!軽装備だが、服が今にもはち切れそうで、自分よりも二回りほど大きい。めりこんだ斧を引っこ抜こうとしている。ありえない巨体に、ありえない馬鹿力。慄然としたが、本当に慄いているのは、本当に否定したがっているのは、彼の正体だった。


 立派に蓄えた無精髭。ボサボサの髪。俺の手は、震えていた。なぜだか頭が痛い。それは過去が、いつかの過去が何か引っかかっていたからだ。そして、にやけた目。くまができている。震えは大きくなるばかりだ。思わず目線を下にずらす。胸には、残酷にも銀色のロケットが光っていた。

「…………!!」

今にも膝から崩れ落ちそうな程の衝撃が体を駆け抜けた。あの時の、あの時の冒険者だ!一人の俺を、袋の破けた俺を、襲われそうになっていた俺を!そんな俺を助けてくれた唯一の冒険者が、そこに立っていた。それも、最悪なことに、明確な殺意を持って。

「……よお」

たどたどしい声でしゃべったそれは、まるで、人の声を真似る魔物のようだった。俺は静かに、壁に立てかけていた盾を構えた。

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