治癒の癒花_06
瑠璃色の礼装は胸元がはだけ、大帯や紳は解かれて床にまでこぼれ落ち、蔽膝や佩飾に至ってはもう床に直接落ちている。羽織りもズレており、ぷらぷらと揺れる足先は裸足で――――
そこまで確認して、
まとう衣が多く、気の緩んだ体勢でいるためすぐには分からなかったが、分かってしまえば直視などしていられない。
「……!」
ぴゃっ、と草苺は顔を背けてしまった。
「草苺? どうした?」
「その……あの……」
どう伝えるべきか、当惑した。
偉大なる皇帝の務めは多い。国の未来のために繁栄させるのも御役目のうちだとは理解している。
縁遠い下っ端女官ではあるが、後宮で過ごす女の一人として、草苺もけして無知ではない。
無知ではないが、日夜雑草むしりに浸ってその手の話題から離れていた草苺は顔が燃えるように熱くなってしまった。
「角星……。わたしが呼ばれた理由って……昨日の、花結いの件だよね?」
「そうだ」
「そう、だよね……うん。よかった……」
胸の前で手を合わせ、気持ちを落ち着かせるために深く息を吐く。
草苺のただならぬ様子を悟った角星が皇帝へと意識を移した。
「……ぁあ?」
一瞬にして、鋭い眼光に殺気にすら近い圧が灯る。彼の影が激情に反応して揺らぐ。
「悪い、草苺。後ろ向いて、少しだけ耳を塞いでくれ」
「…………はい」
顔を火照らせたまま、草苺は言われた通りにする。
「こんの下半身■■■――――ッ!」
角星が人前で口にしてはならない罵詈を叫んだのは、振動する空気から肌で感じ取れた。
背後が騒がしくなる。ふと、床に伸びた柱の影から、わらわらと猫が這い出てきた。
それらは草苺の支度をしてくれた
猫妖とはまた異なり影でできた存在で、尻尾は一本。必ず黒い毛並みの猫だ。
影の猫たちは武官肌である猫妖とは真逆で、頭を使う作業や雑用などが得意らしい。
影猫たちは四足で、草苺の背後へと走り抜けていった。きっと、だらしのない男の身支度をするためだろう。
数匹が耳を塞ぐ草苺の前にやってきて、頭と尻尾を申し訳なさそうに下げる。
影猫たちは自分の影から取り出した真新しい敷物を広げ、それぞれが長い尻尾を第三の腕のように駆使して茶の準備を始めた。
背後が落ち着いたのを気配で読んだ草苺は膝をおり、そろりと耳から手を離した。
「違うんだよ、スウ。今日って暑いくらいでしょお? 水浴びしてただけだってえ……信じてえ」
「日頃の行いから信じられないんだよ!」
「自分のお花を愛でてなにが悪いのお?」
「そ、れは……悪くは、ねえけど……」
「でっしょお? お花は一番美しく咲いてる時に愛でてあげないと」
「時と場合は考えろ!」
手を離すのが早かったと草苺が後悔した時、同じように気まずい様子で影猫が手を引いてきた。
「あっ、
気の抜ける喋り方をする、あのだらしのない男が賢帝と敬われる英雄なのかと懐疑心が募るが、現実は早めに受け入れたほうがいいと草苺は自分を納得させる。
「ニャッニャッ!」
「あ、ありがとう……」
背後は無視してほしいと言わんばかりに一匹の影猫から、ずいっ! と差し出されたのは芳醇な香りの
蓮の実と
人気すぎて、上級妃嬪しか飲めない高級品。
「わっ、いい香り……! 茉莉花茶、だよね? もらっていいの?」
「ニャッ!」
「こんなの初めて飲むよ。嬉しい」
茶菓子もある、と二匹の影猫が次から次へと影より大皿を引っ張り出す。菊を模った
他にも、先程のマカロンや名も知らぬ異国菓子まで用意された。
「すごい。マカロンって、色んな色があるんだね」
あの極上な甘味を思い出し、若葉色の視線が色鮮やかなマカロンに向かう。
瞳を輝かせる草苺へと影猫がマカロン皿を差し出してくれた。
「締まらなくて悪いな」
背後から腕が伸びてきて、ベリーマカロンだけをみっつも一気に摘む。
「こっちから呼び出したのに……」
げんなりと戻ってきた角星が、みっつのベリーマカロンを贅沢に一口で頬張り、咀嚼した。
「おかげで緊張はなくなったよ」
「こんなのはよくない緊張の解き方だろ。ったく」
「あはは……そうだね。ちょっと、ううん。かなり驚いたかな」
「だよな。本当に悪かった」
「角星が謝らないでよ」
「あいつがあんなふうなのは、俺の責任でもある」
角星は草苺の隣にあぐらをかくと、不機嫌そうに耳飾りを弄り始めた。
彼は随分と皇帝と距離が近い。先程のやり取りなど兄弟に思えるほど。二人がただの主と臣下ではないのは明らかだ。そう考えると、角星が皇帝直属という特別な立場なのも頷けた。
「あいつは頭はいいが性格に難がありすぎてな。おかげでいつもいつも俺を、いや! 周りを引っ掻き回しやがって……!」
「大変そうだね、角星」
草苺は茉莉花茶を味わいつつ、彼を労った。
「余だって大変だよ、小苺。角星は小言が多くて
「え? わっ!」
「玫瑰花、美味しいよねえ。余も好きい」
左後ろから指甲套を小指に嵌めた別の手が伸びてきて、草苺の茶器を奪っていく。
瑠璃色の天子御礼服で身なりを整えた蕐劍の皇帝こと
「んんー、
驚いたが、草苺はすぐに毒味役にされたと察する。
でなければ、皇帝がこんなに行儀の悪いことをするはずがない。
「これねえ、薔薇の砂糖漬けをいれても美味しいんだよお」
穏やかな微笑みを唇に携えた白匣は、影猫が掲げた硝子瓶から砂糖漬けにされた小振りの薔薇を指で摘み上げた。
さらり、と茶器に落とす。
茶器を満たす黄昏の底で、あまやかな薔薇がゆらゆらと咲いた。
「きれいでしょお?」
「はい。きれいで、す……っ!」
つぅい……と。砂糖でざらつく指先で、草苺は上唇を撫でられた。あまさを感じる前に、顔が赤らむ前に、角星に肩を引っ張られる。
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