雑草娘娘_02

「傷んでしまった癒花ジユファを見られたくないお気持ちはお察しします。しかし」


 癒花を切ることのできない草苺ツァオメイでは、これほどまでの症状はどうしようもない。


「どうか、これ以上悪化する前に花結師へご相談くださいませ」


 草苺は紫陽花バーシエンフアの状態を説得する。それがいまの自分にできる最善のことだと信じて。


「でも! でも、こんなの……いやよ! 見せられない! どうにかしてよ!」

「わたしには無理です。癒花に……癒花に虫がついているなんて初めて見ました」


 蜘蛛とはっきり伝えるのは酷だろうと少し表現をやわらかくしたが、花結師に頼らずにいられるのも困るので隠さずに状態を伝える。


「虫ッ⁉︎ なによ虫って!」


 凄まじい剣幕で、紫陽花の妃妾は草苺に掴み掛かった。長い爪が布越しに肩に食い込む。

「っ!」草苺は痛みに片眉を顰めた。

 紫陽花の妃妾の細指が、ギチギチと有り得ない力で草苺を掴む。


「この黒ずみが虫みたいに醜いと言いたいの⁉︎」

「黒ずみ……?」

「そうよ! こんなに黒くなるほど傷めたことを貴女も馬鹿にしてるのね! なによ! ろくな花も咲かせられないくせに!」


 どうやら彼女は自分の花についている不気味な虫に気が付いていない様子。

 いや、まるで見えていないかのよう。


「雑草むしりしかできないくせに! 雑草娘娘ごときがこの私になんてことを!」

「きゃ――!」


 思い切り突き飛ばされ、草苺は地面に倒れ込んだ。やはり力が強過ぎる。

 草苺は幼少期の栄養失調のせいで小柄ではあるが、路上暮らしで鍛えられた部分も多い。後宮に入ってからも広い敷地内をうろちょろして、雑草むしりに精を出しているお陰で体力には自信があった。

 少なくとも、目の前の細身の妃妾に簡単に突き飛ばされるほど柔な身体であるつもりはない。

 なのに、草苺は軽々と彼女に押されて、掴まれた肩も痺れが走る。


「ふざけんじゃないわよ! 虫みたいに汚れた私の花は結えないって⁉︎ 雑草娘娘のくせに! 結いなさいよ!」

「そうじゃな――――っぐ!」


 紫陽花の妃妾が飛び掛かってきた。

 腕を掴まれ、引き倒される。


「早く結いなさいよ! 花結いができるんでしょ!」

「っ、だ、からわたしは……誤魔化すくらいで」

「ならうまく誤魔化しなさいよ!」


 激情のまま馬乗りになられ、頭の蛇苺を鷲掴まれた。紅の引かれた唇から唾とともに耳を塞ぎたくなる苛烈な罵詈雑言を投げ付けられる。


「早く! 私の癒花を結え! 早く! 早くしろ!」

「――――っ⁉︎」


 草苺は顔を引き攣らせた。

 呪詛と変わらぬ暴言を吐く彼女の口の中で、あの蜘蛛が、ざわめいていた。


 黒々とした、頭蓋の腹を持つ蜘蛛が。


 彼女の口腔で所狭しと犇いている。


 草全身がぞっと粟立つ。

 あまりのおぞましさに悲鳴すら喉奥で潰れた。


「早く! 早く! 早く! 癒花を! 早く!」


 紫陽花の妃妾が激しさを強める。

 びっしりと蜘蛛が詰まった口のどこから声が出るのだろうか。

 草苺には、もはや蠕動する蜘蛛の頭蓋の腹そのものが叫んでいる気がした。


「早く! 早く! 早ク――――ッ!」


 おぞましい蜘蛛達が、草苺を急かす。

 紫陽花の妃妾がブヂブヂブヂ……! と草苺の頭に生える蛇苺を毟り取った。


「っう……!」


 癒花自体には血は流れておらず痛覚もない。

 それでも、頭皮に近い部分から髪ごと千切られれば痛みを感じる。頭にチリチリと熱のこもった激痛が走った。


「――癒花ヲ、チョウダイ」


 にちゃり、と。

 紫陽花の妃妾の唇が、いやらしく弧を描いた。


 彼女の目は正気ではない。

 焦点が定らず、しかし顔は恍惚としていて、なのに薄っぺらさを感じさせるちぐはぐな表情。

 まるで土人形をこねくり回して無理矢理顔を作ったかのような――とにかく、なんと表現していいのか分からない不気味な気持ち悪さをしていた。

 彼女はゆっくりと、ゆっくりと、千切れた黒髪の絡む手を持ち上げる。


 そして躊躇なく、むしろ嬉々として。


 むしった草苺の癒花を、蛇苺を、喰った。


 蛇苺に、わっ! と蜘蛛が群がる。

 彼女の口から這い出してきた人面蜘蛛が一斉に蛇苺をどす黒く覆った。

 うち数匹が涎を流すかのように糸を垂らして落ちてきて「いやああああっ!」


 草苺はがむしゃらに腕を振り回す。

 覆い被さっている紫陽花の妃妾の身体を押し退けて、逃げ出した。


「なに! なんなの! なんで!」


 自分の恐怖心と本能に従って草苺は走る。

 周りを見ている余裕はない。

 思考も真っ白になり、ただただ走った。

 涙が溢れ、視界が歪む。

 それでも足はとまらず、とめられず――――しばらくして。


「わっ!」


 ようやくとまった理由は、焦る自分の足に躓いて転んだから。

 草苺は受け身も取れずに地面に全身を叩き付ける。慌てて立ち上がろうとしたが、手足に力が入らない。手のひらを大きく擦り剥いて血が滲む。


「っ、うう……」


 草苺は雑草だらけの地面に大粒の涙を落とした。震える四肢に鞭を打ち、上体を持ち上げる。

 自分がどこに来てしまったのかも分からない。伸び切った雑草と枝葉の多い木々に囲まれたそこが後宮の一部だとは信じられない。

 まるで違う世界に来てしまったような不安感と孤独感。


 不意に、ガサッ……と頭上で草木が揺れた。

 煤はよく後宮の木の影に隠れていることがある。


「煤老師……ッ!」


 もしやと、草苺は満面の笑みで樹木を仰ぎ見る。

 木の上には、手脚を広げて蜘蛛のように太い幹に張り付いている女がいた。


 思考が凍り付く。

 頭が真っ白になり、それでも身体が本能的に総毛立ち、遅れて悪寒が背筋を這い上がる。

 声も出ず、ただ心臓が締め付けられた。


「…………」


 硬直する草苺の真横に、ぼどり……となにかが落ちてきた。

 見たくない。なのに草苺の眼球は勝手に動き、見てしまった。それは、人面蜘蛛にまみれる腐り落ちた一束の紫陽花だった。

 女の命が、ドロドロに腐り切って落ちている。


「――――――!」


 草苺の口から音のない絶叫が爆発する。

 再び逃げようとしたが、完全に腰が抜けて身体が言うことをきかない。歯の根が噛み合わなくなり、その場で縮こまるのが精一杯だった。


「煤老師……煤老師っ……」


 カチカチと震える歯の隙間から大切な、頼れる相手の名だけが洩れる。

 そのか細い声も女の落下音に掻き消された。


 四つん這いで草苺の前に飛び降りてきた彼女は鼻から上がすべて蜘蛛に覆われている。

 紫陽花も、蜘蛛にびっちりと隠されてしまった。

 赤い唇だけが不気味に吊り上がったまま。

 不気味に笑む口内で蜘蛛が、蠢いている。


「癒花……アナタ、オイシイ……トッテモ、トッテモ、早クチョウダイ……」


 近付いてくる相手に、草苺は反射的に後退るが、すぐに背中が樹木にぶつかった。


「!」


 逃げ場がない。

 それは眼前の存在には好都合で。腹を空かせた蜘蛛が巣にかかった小虫に飛び掛かるように、人間では有り得ない速さで草苺へと向かってきた。


「煤老師――――!」


 目を瞑り、叫ぶ。

 どんな時でも必ず助けてくれる者の名を。


「ギャァア!」


 悲鳴が上がる。きつく瞼を下ろして歯を食いしばる草苺から出た声ではない。

 なにかが雑草のなかに落ちる音も聞こえ、草苺は恐る恐る目を開いた。

 真っ先に視界に映り込んできたのは、陽の光すら飲み込むほどの濃い黒髪と、黒の隙間で揺れる長房の耳飾り。次いで、いままさに影から出現する二本の剣だった。

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