第7話

 部活が終わったとき、ミラは体育館の入り口でスニーカーを鳴らしていた。


「いま部活終わった」

 と打ちかけていたメッセージを落として、僕もスマホをポケットに突っ込む。今日の彼女は「人間」を上手くやれているようだった。


 ここ数日で気付いたことだけど、たまに彼女が動かなくなるタイミングがある。

 ひとりでいるとき、急に途方に暮れたように自分の指を見て、ぎこちなく一本ずつ曲げていく瞬間。プラスチックのおもちゃみたいにカチカチと折れ曲がる関節を、そういうときのミラは、まるで動作手順を思い出すようにゆっくりと動かしていく。

 無意識の自分を再現しようとしているんだ、と思う。

 機械無しでも自分の気持ちが分かるように。


 今は意味もなく足を揺らし、不規則に髪を漉いて、どれも意図も無くやれているように見えた。きっとこの動きも分解していくと複雑なパターンがあって、途方もない訓練の末に彼女が会得したものなのだろう。

 いざ隣に立つと、いつもクラスで顔を合わせていたのに、まるで初対面みたいに言葉が出てこなかった。

 やがて彼女の足が止まる。つま先から砂がひと粒、軽く飛んだ。


 今日はローファーじゃないんだ、と声をかけようとすると、その前に彼女は片手の傘を見せてきた。

「天気予報、外れちゃったからさ」

 うっすら土の匂いがする空気を吸って、彼女は大きく伸びを打つ。


 曇り空は黒々としていて、今にも雨を落としてきそうだった。

 僕がもたもたと靴を替えているあいだ、ミラは一歩離れたところでずっと『こころ』の入ったかばんをいじっていた。

「もしかして緊張してる?」

 と僕が言うと、彼女はためらいがちに笑った。

「いつも私から誘ってばっかりだったから、リードした方が良いかなって」

「大丈夫。僕も長く話すつもりじゃない」

 校門に向かって歩き出すと、彼女も斜め後ろからついてきた。

 駅に向かう坂道に差し掛かったタイミングで、西の雲に切れ目ができた。にじむような夕焼けが目を刺し、手をかざす一瞬に、ミラが隣に並んでくる。僕の歩調に合わせるように少し大股になって、横顔から見える彼女の唇が大きくつり上がった。


「別れ話だと思ってた」

 彼女は小さく言った。僕は指越しに目をすがめる。

「前も言ったけど、そのつもりだったらメールで済ませてる」

 ようやく目が慣れてきて、手を下ろす。直射日光でじんわりと頬が熱を持った。

「でもリンジ、なんか変わってるし」

 前を歩く集団が遠くに見えた。剣道部だろうか。ずいぶん騒いでいるようだった。

「変わってる?」

「昔からね。私にとっては、リンジって他の人より変わってるんだ」

 ふふ、とミラも僕の真似をして手をかざした。

 白い頬の上で、開いた指のシルエットが縞模様を作る。


「手術のあとで一番びっくりしたのが夕日だった」

 彼女の虹彩に真っ赤な太陽が映り込み、濡れた粘膜がわずかに光の輪を動かす。

「手術?」

「そ。頭の前側でね、脳がちょっと違うんだ。私」

 彼女の指が曲がって、汗ばんだひたいをコツコツとたたく。

「感情とか、ここで作ったやつが後ろまで回っていかないんだって」

「だから機械を……」

「そ。すごかったよ。今まで自分の中にある感動が脳に回ってきた瞬間」

 ミラの唇が上にねじ曲がった。

「『赤い』って、甘いんだな? って」

「イチゴの色だから?」


 ミラはじっとこちらを見つめた。それからあごに指を当て、おお、とつぶやく。

「だからか……そっか、イチゴなんだ」

「いや、ごめん。それで?」

「うん。色って目だけじゃないんだって気付いて、色々試したの」

 ひとつずつ、数えるように彼女は口に出す。


 水。

 香水。

 ハンバーガー。

 音楽。

 勉強。


 彼女が語る声は落ち着いていたけど、少しだけ興奮がにじんでいた。

 ロックミュージックの熱さ。水の味の白さ。四則演算の硬さと、香水から漂う塩気。これまで対応した器官で受け取るだけだった刺激が、スイッチひとつで文字通り全身を包むように変わった――。


「でも高校に入って一番衝撃だったのは、きみがすごくヘンだったってこと!」

 ミラは苦笑して言った。

「『ねえ、男子でひとりメチャクチャ青い人がいるんだけど』って母さんに言っちゃったんだけど、意味分かんないよね」

「……青い?」

「そ」ミラがこちらを見つめる。「他のひとはなんか、みんな黄色なの。でもリンジだけはいつも青いから、ずっと気になってた」


 自分の手をじっと見つめる。

 焼けて赤くなった肌が、荒れてあちこちひび割れていた。ここのところ急に寒くなって霜焼けてしまったせいだ。こんな手でも、この人には青く見えるんだろうか。


「調べたし、自分で実験したりもした。私はどういうとき黄色が見えて、何に青色を感じるのか。友だちに聞いてリンジの青色っぽいところをまとめたりね」

 彼女は手首に香水を吹く真似をしてみせた。

 きっと、あの水族館にも足を運んだのだろう。ミュージアムショップで例の香水を見つけて、ああ、だからか! とつぶやく彼女が目に浮かぶようだった。


「で、分かったわけですよ」

 彼女の握った手から人差し指だけが飛び出して、僕に向かって傾く。

 黙って見つめ返すと、彼女は得意げに肩を上げてきた。

「私、ムカついてるんだなって」

「は?」

 やっと言えた、というようにミラは『こころ』を背負いなおした。

「リンジこそ、私が見てることに気付いてた?」

「え……いや……」

 言われてみれば、僕はミラにずっと観察されていたのだ。

 たしかに一学期の時点で視線が合って気まずくなったような記憶が何度かある。


「なんで見なかったの」

「さあ……」

 と言いかけて、彼女の目が刃物のように光ったのに気が付いてやめる。

 長く沈黙が続いた。

 もしかすると、ミラが諦めてくれるのを期待していたのかもしれない。

 彼女の足が止まる。僕も歩みを止め、彼女の顔を横目でうかがう。


「……どうでもよかったんだ」

 僕は観念して言った。彼女がまた睨むのを、かぶりを振って止める。

「座右の銘って言うのかな。『世の中、半分はどうでもいいことで出来ている』『残りの半分もよくよく考えたら別にどうでもいい』っていう」

「私のことは『よくよく考えたらどうでもよかった』ってこと?」

 ああ、と強いて微笑む。


「だって、昔は無かったじゃないか、きみとのミャク」


 ひどく傷つける言葉を差し向けているな、と思う。

 これ以上は彼女の顔を見る勇気がなくて、そのまま歩き出す。

「誘ったこと、何度もあったろ。『好き』と言ったのも十七回。だけどミラにいつも無視されてた。それも頭の前半分がどうにかしてたせいかな? で、今は直った?」

 くそが、とつぶやく。「ズルいこと言ってるよな。病気だった人に」

「だから、怒ってるの?」

「これでも頑張ったんだ。『人生は決断できるうちはだいたい間に合う』って思ってた時期もあったよ。吹奏楽、SNS、他につまらないものがいくつも……」

 足を前に運んでいくぼろぼろのスニーカー。これも買い替えそびれてしまった。

「結局、僕はバカだった。そんなものを決めることにカロリーを使うべきじゃなかったんだ。もっと前のところで、大事なものを選ぶべきだった。真春さんだって……」


 僕はこんなものが欲しかったんだろうか――いつもそうやって不満足に思ってるし、そのうち後悔していることも「どうでもいい」と流せるようになった。


 これを進歩とは思わない。ただ逃げてるだけだから。


「まったく、ダメだな。好きだった女の子はなんだかヘンテコな機械のせいでグチャグチャになってるし、なのに先輩の檄ひとつで出来る気になってメールを送っちまう……」

 さっきから振動しているスマホを取り出して、画面を点ける。

 ユキから呼び出しのラインが入っていた。見ないふりをしてポケットに入れる。


「別れてもいいと思ってる」とつぶやく。

「え?」

「だって不毛だろ」

 わざと舌打ちして、顔をしかめながら振り向く。目を丸くしたミラが目の前にいる。


 彼女のカバンからジリジリと駆動音が響いた。

 かばうようにミラが手で押さえる。きれいな指をしている、と思った。

 彼女も視線に気付いて、慌てたように指を折り曲げる。僕の方を向いた淡い瞳が、きまり悪そうに一回まばたきをした。


「卑怯なことを言うけど、僕と話したせいで苦しくなる真春さんを見たくない」

 ミラの目が「きゅっ」と小さくなる。

 ひと呼吸おく間があり、吸い込んだ息で、彼女の胸が少しだけ膨らむ。

 カバンから彼女の指が離れていく。駆動音が低くなると、彼女は大きくため息をついた。


「……本当に卑怯だな?」

「ちゃんと別れる理由になれたかな」

「どうだろ。でも北風と太陽なら、今のは北風かな」

 ミラはふっと笑うと、ふたたび歩き出した。


 乱暴にアスファルトを蹴りつけるたび、小気味よいノイズが響く。中学時代の彼女も、よくやっていた。あの頃と違うのは、動きに感情が乗っていること。


 この人、面白がってるな――顔を上げると、同じタイミングでミラが人差し指を立てた。

 その指がパチンと『こころ』のスイッチを切る。駆動音が止まり、彼女の足が迷ったように止まり、そして、意を決したようにまた地面を蹴る。


「ごめん。冷静になりたかった」

 前を歩く彼女の後姿が、抑揚のない声を発する。

「スイッチだけで面倒なこと全部ダルくなれるから、私って便利だよね」

「同情すればいいのかな」

「リンジは『僕には関係ない』と思ってるでしょ。それでいいよ」

 ミラの歩調は機械のように規則正しい。きれいなスタッカートの靴音を刻みながら、彼女は皮肉っぽく首をかしげた。

「でも、私はきみに決めさせたい。ちゃんと巻き込んでやりたいなって思ってる」

「さっき言ってた、ムカついたからってやつ?」

「うん」

 ミラが振り返る。無感情な瞳が僕を捉えて、カメラのシャッターみたいにまばたきする。


「どうかな」

(ごめん、どういう意味?)


 中学時代の彼女と同じ目だった。見つめても何も読み取れず、どう答えたらいいのか、こっちが困ってしまう。だから、ずっと苦手だった。


「……こんなにズルい人とは思ってなかったな」

「うん。私もびっくりしてる」

 彼女の唇が持ち上がり、「笑み」を作る。

 たぶんあとで『こころ』のスイッチを入れたとき、この人は後悔するんだろうと思う。僕から本音を聞き出したいという一点だけで、ここまでやらせてしまった。

 無意識に、あごの先を引っ張ってしまった。

 僕の『こころ』を言葉に出すのがこんなに難しいなんて。


「……ごめん」


 考えた末に、僕も「笑み」を作った。きっと上手く苦笑できたと思う。

 ミラの笑みが消える。なんでもない、と表現するために、僕も軽く首を振る。


「もう少し、待って欲しい。まだ僕も分かんないから」

 ミラの顔は動かなかった。『困惑』の表情だ。

 やがて、彼女は脱力した手つきで『こころ』のスイッチをはじいた。整った唇が大きく息を吐き出し、少しつり上がった目が僕を睨んでくる。


「カッコイイところ見せてくれると思ってたのに」

「ダサいんだよ、僕は」

「うん、知ってる」

 ミラは肩を落とした。ずり下がったカバンを持ち上げて、スクールバッグと一緒に担ぎ直す。がつん、と派手な音が鳴った。


「いつになったら、カッコいいところ見せられそう?」

「さあ……明日か、一年後か」

「待ってるから」

 ミラは僕の隣に立って、頭を軽く腕にぶつけてきた。

 これは中学時代の彼女じゃ絶対にやれなかったことだ。こんなに変わった彼女のことを、僕は何も知らない。でも彼女も、きっと僕のことは知らない部分がある。


「明日、言うよ」

 僕はつぶやいた。

「それでいいだろ」

 ふふ、と彼女が笑みを漏らす。心から嬉しそうな声だった。

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心仕掛けのピュグマリオン 平沼 辰流 @laika-xx

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