第6話

 あの日からミラ……真春さんとは話さなくなった。


 なんとなく気まずくなった、というのが第一。

 情けない話だけれど、結局、たかが恋人なんて無くても日常生活で別に困るものじゃなかったし、僕たちがお互い踏み込んだ仲から他人同士に戻るのも簡単だった。たった一歩、足を引くだけでいいのだから。


 そうして気が付けば2週間が経った。


「つねづね不思議に思うんだよ」

 コルグのチューナーを店の棚に戻したとき、隣で売り物のスコアを眺めていたサヨノ先輩が急につぶやいた。ちらりと横目で見て、ため息をついてやる。

ミュージック8は嫌がられますよ」

「うん?」

「『宇宙戦艦ヤマト』ですけど、サビ最後のタメが無かった」

「ああ、これ。選ぶつもりはないよ。次は『スピードオブヒート』にするらしいから」

 先輩はぽんっとスコアを棚に戻して、わざとらしく手を払った。

 今日になって僕のチューナーがとうとうイカれて、ショッピングモールに買いに行こうと楽器倉庫でユキに相談したのをサヨノ先輩に聞きつけられたのが運のツキだった。


「ウチのジュンがもうすぐ誕生日だから」

 と言って約三十五分に及ぶロフトでの買い物に付き合わされ、その結果、今の僕の背中には巨大な紫色のマスコットのぬいぐるみクッションがくくりつけられている。


「そろそろ重いんですけど……」

「で、ひとつ不思議に思うんだ」

 サヨノ先輩は低い声を作って、こちらにうなずく。意地でも荷物は持たないらしい。


「先輩の場合、鏡を見た後なら世の中の九割は納得いけるんじゃないっすかね」

「それ。それだよ。『先輩』って」

 サヨノ先輩はこちらに突きつけた指を回した。

「みんな『先輩』とは呼ぶのに、『後輩』とはなかなか呼ばないじゃない?」

「いや、後輩の名前も覚えてない先輩とかイヤじゃないっすか」

「そういう簡単に答えを出すヤツはつまらないって言ってるのが分かんないかな」


 ほら、と手を出してくる。ぬいぐるみを寄越した途端、先輩は派手によろめいた。

 トランペットパート内の慣例で、誕生日プレゼントとして、こんなぬいぐるみを贈り合ってるらしい。ウチのは緑とオレンジだから紫ね、と先ほどはわけの分からない理屈を展開された。


「フルートはこういうの無いの?」

「さいわいウチはみんな上品なんで」

「たかが誕生日くらいで真面目にやってどうすんのよ」

 先輩は口をとがらせて、僕の持っていたチューナーをもぎ取ってレジに向かった。

 手早くキャッシュレスで会計を済ませて、こちらに放り投げてくる。


 もたもたとキャッチする僕を無表情に眺めながら、先輩はかついだぬいぐるみを顔の前に持ってきた。

「『おいキサマ。コイツは振られたバカへの見舞い金だってよ』」

 目をかっぴらいたぬいぐるみのツラがぐねぐねと動き、素っ頓狂な高い声が飛び出す。

「『サヨノ先輩はキサマの失恋は四八〇〇円だと言ってる! たぶん相当高いぞ』」

「そういうお人形お遊びして、イタくないのは中学生までじゃないですかね」

 ぴん、とぬいぐるみのひたいをはじいて店を出る。


 夜が近いせいで、フードコートも客足はまばらだった。

 夕飯を食って帰る旨を家にメールで送って、先輩と一緒にサブウェイのサブサンドイッチを単品で頼む。テーブルについて、ぬいぐるみを隣に置いて向かい合うなり、先輩が営業スマイルを浮かべてきた。

「で、どういう風に振られたのだね?」

「それ。冗談で訊いてないんだったら真正シンセイですよ」

 思いっきり嫌な顔を作ってバジルサンドにかぶりつく。「これでも僕はシリアスなんだ」


「あたしだってマジなんだけど。ほら、先輩命令だよ。答えな」

「まあべつに……方向性っていうか、なんか恋愛って、急に『僕たち本気じゃないな』って気付くときあるじゃないですか。それで、まあ。気まずくなって終了でしたよ」

「へえ、つまんない。リンジならビンタくらい食らったと思ってたのに」

「つまんないって……」

 先輩が飛ばして来たチリソースをナプキンで拭いて、たたむついでに目を上げる。

 サヨノ先輩はこちらも見ずに口についたソースを舐めとって、「全然からくないなコレ」とつぶやいた。

「先輩と違って、僕は百パーセントのゲンジツに生きてるんで」

「現実って?」

 サヨノ先輩が面白そうに目を向けてくる。


「だから……オチも無いし、始まりとか終わりとか、そういうのも無いやつです」

「ねえ、常識で考えよ? 一日のオチなんて午前0時になったら勝手に付くでしょ」

「僕がそういう話をしてないの分かってますよね?」

「でもそういう話にしろって言ってるんだよね、あたしは」

 ふふ、と笑いながら先輩はサンドイッチを口から離した。

「あたしがカレシと殴り合ったって話、したっけ」

「は?」

「三年前ね」先輩は片手で自分の頬を撫ぜた。「付き合ってたやつがいたんだけど、いつもコンビニで小銭の計算間違えるのね。何度やってもぴったり出さないから、イライラして。で、こっちがキレたら逆ギレされて、最後はつかみ合いの引っかき合い――」

 ぱっ、と頬から手が離れる。

 僕が何も言わないと、少しだけ火照った顔をして、先輩はにやりと笑った。

「マジで中二って良い年ごろだったよ。お互い本気でやってもイタくないから」

「すみません、それを聞かせて、僕にどういう反応させたいんです?」

「ま、ジンセイの参考にね? もしあそこで破局しなかったら、あたしは一生レジからジャラジャラ出てくる小銭にフラストレーション溜め続けてたかもしれないし、結果としたら良かったよねって」


 先輩は席を立って水を持ってきた。僕と自分の前にひとつずつカップを置いて、さっそくずるずるとすすり始める。

「先輩はそれで良かったんですか」

「いンや……」

 先輩は唇をぬぐいつつ、眉をハの字に開いた。

「言っとくけど、あいつのことはサイキョーに好きだった。分かれたあとはしばらく学校休んだし、心の整理をつけるまでに趣味が三つ増えた。そんくらい大好きだったのは、今でもカクジツだね」

「でも」

「今のあたしが割り切りすぎって?」

 僕がうなずき返すと、サヨノ先輩は少し笑みを消した。

「選んだから、ね」

 彼女の握るカップの中で水面がわずかに揺れる。


「あたしはたかが小銭でキレることを選んだし、向こうも真面目に財布の中を数える人生よりも『うるせえな』とその場で怒鳴り返すことを選んだ」

 ぐいっ、と先輩はカップを呷って派手にげっぷを吐いた。

「まあ、前者に関しては完ペキに『あたしのせい』でしょ。付き合う前から細かい勘定ができないヤツってのは分かってたのに、自分で進んで関係をブチ壊したんだから」

「でも、その前に言えば直せたかもしれないのに」

「そう。そこ。まさにそれよ」

 空っぽになったカップが僕に向かって傾き、先輩は大きくうなずく。


「もちろんあとで『わあああ』ってなっちゃった。その『わあああ』には色々あるけどね、じゃあ今度は『いつのどこの日に戻ったら、あたしの人生は直せるんですか』って話になってくるわけ。で、答えは『いつも同じこと』になる」

 ゆっくりとカップがプレートに置かれる。

 サヨノ先輩はふたたびサンドイッチにかぶりつき、もごもごと言った。


「だから良かったの。あの時点のあたしの能力じゃ、あれが最強の選択だったんだから。たぶん何百回、何千回と人生やり直しても、あたしは渾身の右フックで奥歯をへし折られるし、お返しで向こうの鼻を潰す。だってそれが『良い』んだもの」


 がはは、といきなり先輩が笑い出す。

 今度は口の奥にセットされた銀歯がはっきりと見えた。

 僕はミラをぶん殴る自分を想像した。それから、振りかぶったバッグでこちらの鼻を潰してくるミラを。どちらもひどく曖昧なイメージで、遠い夢の出来事にしか思えなかった。

 まったく、ひとつ学年が違うだけでこんなに別世界の人がいるなんて。


「先パイが断言しよう。今のきみはあたしほど『わあああ』ってなってない!」

 丁寧にサンドイッチの包み紙がたたまれ、先輩の白い指がきゅっと折り目を付ける。上目遣いでこちらを見つめると、彼女はうすく唇を開いた。

「ね。じっさい自分にとって正しくないでしょ、今のキミ?」

「……そういうの決めつけないでほしい」

「うんうん。それ、まだ何も決めてない人には言われたくないかな」

 先輩はぽんっ、と紙を置いた。

「呉機リンジくんさ、後回しとか、無理だからね。分かってるのに自分で出来ることが残ってるうちは、日付が変わろうがセカイが終わろうが誰もオチを付けちゃくれないよ」


 先輩は僕のかじりかけのバジルサンドをかっさらって、ひと口で半分くらい頬張った。そのまま満足そうにモシャモシャとやりながら返してくる。


「あたしは全部やってる。だから午前0時になれば勝手にオチが付くってわけ」

「さっきからオチとかワケが分かんないんですけど」

「べつに分かんなくていいよ。あたしはそういう原理で人生やってたら上手くやれてるって、そういうお話」

 隣のぬいぐるみを背負いなおして、先輩は「じゃあね」と言って去って行った。

 しばらくサンドイッチを握ったまま、ぼうっとしていた。

 腹が鳴ったのでとりあえずかぶりつく。パンの断面には先輩の歯形がくっきり残っていたが、今は何も考えないことにした。


 気を取り直して、包み紙を丸めてゴミ箱に叩きこむ。そのときポケットに突っ込んだままのチューナーがカチャリと音を立てた。

 チューナーを取り出して、じいっと眺める。

 つくづく幸せなヒト――ふと先輩のことが羨ましくなってしまった。

 カバンにしまって、スマホを見ると家からの返信が来ていた。『今から帰る』と打ちながら、その場をぐるぐると歩く。

 あの人はやっぱり物語の中を生きてるんだと思う。なんでも伏線にしちゃうし、作ったそばから回収するから、いつでも話をオシマイに出来てしまう。


 やっぱり決めてないんだろうか、僕。

 あの人からするとそう見えるらしい。

 ……周りから見るとサボってる。

 まあ、そうかもしれない。何もしてないのは確かだ。

 でも違うと決めてかかって、このまま帰ることもできる。


「参ったな」

 電話帳を開くと下の方に『真春さん』のアドレスが残っていた。名前を『ミラ』に書き直すことすら、僕はサボってたんだな。そう思うとなんだか笑えてきた。

 OK、こいつはサボってやがる。

『ごめん。会いたい』

 送信ボタンを押して、プレートが残ったままのテーブルに腰を下ろす。

 ひとつ、決めてしまった。僕の決断はいま発射されて、もう狙った場所に当たるのを祈ることしかできない。でもなんて軽い引き金なんだろう。

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