第5話

 日の暮れたあとの公園に入るのは初めてだった。


 街灯の光で作られたフープから一歩踏み出す。その瞬間、陰が薄く視界を覆った。やっぱり通学路から外れると異界だな、とか考えながら砂場のはぐれカラスを眺めていると、後ろでミラが地面を蹴った。


 トイレの隣でひとつきりで光っている自販機から炭酸水を買ったとき、最後の夕日が落ちきった。


「いる?」

 炭酸水のボトルを軽く上げてやる。べつにいい、とミラが首を振る。


 ゆっくりと休憩所のベンチに腰かける。隣にミラが座って、あいだに彼女の『こころ』が置かれた。そっと、ボトルを手の中で回し、冷たい感触を確かめる。そのままぐいっと飲みにいくと、吹き出た中身が口の端からこぼれた。

「僕たち、中学のときも同じクラスだったの覚えてるかな」

「うん。三年B組」

 ミラがそっとバッグを引き寄せる。半開きになったファスナーの奥で、緑のランプがホタルのように揺れていた。


「変わったよね。真春さん」

 炭酸水のボトルを下ろして、『こころ』の前に置く。

 隣に目をやると、膝の上でぎゅっと握ったこぶしが見えた。

 目線を上げていく。

 彼女はいつもの微笑みを浮かべて、困ったように公園の真ん中を眺めていた。

「……今はバスケ部だって、同じパートのやつから聞いた」

「うん」

 彼女の瞳がこちらを向く。

「ごめん。チームでやっていけるタイプじゃないと思ってた」

「でも」

「分かってるよ。何年も経ってるから。そういう変わり方する人もいるって」

 ボトルの水滴で濡れた手で、顔をこする。

 嫌なぬめり気があった。妙に感触の薄い指をにぎにぎと動かして、頬を揉む。


「……あの頃のリンジ、よくこっちを見てた」

 ミラの頬が動いて、虚空に向かって笑みを作る。

「気付いてたんだよね。ただ、『たぶん好きなんだろうな』って思ってた」

 一瞬だけ、彼女の顔がひどく虚ろに見えた。ちょうど、昔よく教室でやっていたように。

「今だったら詰め寄って確かめてたり?」

「うん。OKって言って、あと二年は早く付き合ってたと思う」

「でも当時は違った」

 僕も正面を見る。チリチリと公園の真ん中にあるダイオード灯が点滅していた。


 地面ではまだカラスがうろついていた。

 ビーズのような目がこちらを見て、白く光る。


 突然、頭の裏側が熱くなる感触があった。立ち上がった僕が、ミラの肩をつかんで揺さぶるイメージが鮮明に視界に浮かび、虚像の僕が叫ぶ。「だったら好きだと言ったら応えたかよ?」「僕のことをずっと無視してたじゃないか!」「今さら知った顔しやがって!」


 六秒、待った。


 実際の僕は浅く息を吸い、吐いて、ふたたびため息をつく。髪をそっと漉きつつ、地面でエサを探すカラスを見つめる。大丈夫だった。僕は、ちゃんと頭で動いている。


「……変わった理由、教えてくれないか」

 隣で小さく息を吸う音がした。

 ふっと、『こころ』に白い手が乗る。皮膚から透ける静脈を見ていると、人差し指がカツカツとプラスチックのケースをたたいた。

「ありがと」と彼女がつぶやく。またバレてしまった。「なんだろ……きっとリンジたちの『好き』って、私が考えるよりも身体と頭というか……まあ、フクザツなんだと思う」


 ミラの手が『こころ』から離れて、そろそろとうなじの髪をかきあげる。

 そのままかぎのように曲げた指が髪に深く沈み、頭蓋の丸い輪郭を確かめるように動いた。そうして揺れた毛先の隙から、見開いた瞳がのぞく。

「リンジといま話していて、私は『胸が苦しい』し『汗が止まんない』」

 カラスはまだこちらを見ている。


「『嫌われたくない』から今も『必死で次の言葉を考えてる』。そういう身体の反応があるから、私はきみがたぶん好きなんだな、って信じられてる」

「それが普通だよ。理由なんて放っておけば後から来る」

「でも私は普通じゃないからさ」


 彼女も僕を見ていた。僕がうつむくと、少し安堵したように見えた。

 最後に髪をひと漉きして、ミラは脚を組んだ。

「いくら考えても胸の中が燃えなかったら、きっと『好き』とは言えないよね」

 ローファーのつま先が回り、僕の方を指す。

 その意味を考える前に、ミラの手が『こころ』のスイッチをはじいた。

 ランプが緑から赤に変わり、駆動音が低くなっていく。

 彼女の微笑みがプラスチックのように硬くなり、やがて唇が真一文字に結ばれる。



「だからスイッチひとつで、私から君への『好き』はおしまい」



 ぞっとするほど抑揚のない声だった。

 乾いた瞳が『こころ』を見下ろし、それからこちらに視線を移す。淡い色の虹彩に映った僕の顔がみるみる引きつっていく。

「リンジは、興味のない映画とかドラマをずっと我慢して見たことある?」

 凝視してくる瞳の下で、口が開閉を繰り返した。

「見てると頭では『ここは楽しい』、『このシーンは泣ける』って分かるでしょ。共感するフリもできるし、夢中になってる人と話を合わせることも出来る……」

 ふ、と彼女は息を吸う。

「――でも私は自分で泣いたことはないし、感動のシーンも光の集まりにしか見えない」

 あ、と僕は口を開こうとした。あごを動かした拍子に唇の皮がぱりぱりと剥がれる。


 それを見て彼女は、ゆっくりと『微笑み』を出力した。

「今は私の気持ちも分かるよ。きみのこと、『たぶん好きなんだろうな』って」

「でも……」

「うん。この機械が無い私は、それも言葉として分かってるだけ」

 彼女の笑みが消え、唇が曲がる。

 そうやって『泣き顔』を出力しようとして頬をしばらく動かしたあとで、彼女は肩を落とした。『こころ』の入ったバッグがベンチから離れて行く。彼女がふらふらと立ち上がると、また駆動音が鳴りだした。


「そろそろ大丈夫だと思ったんだけど、全然ダメ。やっぱり燃えらんないや」

「……難しく考えすぎなんだと思うよ」

 炭酸水のボトルを握って立ち上がり、飲むフリをして彼女の後ろに歩く。

「好きとか嫌いとかなんて理屈の話じゃなくてさ。もっと全体で見たときに、あとから納得するものだろ?」


「スイッチで切り替わる納得なんて信じたくない」


 ミラは叫んだつもりだったのかもしれない。

 こちらへと振り向いて、驚いたように喉を押さえる。半開きになった口のなかで、砂糖菓子のような歯が崩れそうに震えていた。やがて指が胸元へと下がり、何かを掴むように関節を曲げる。


「私……リンジのこと、『好き』なんだよね?」

 深いしわの刻まれたシャツに、白くなった爪が沈み込んだ。

「きみの夢は見ないし、お風呂のときも何も感じないけど、ほら。充電が残ってるうちはこんなに……」

 ぎゅっ、と握りつぶされた胸に『こころ』の入ったバッグがぶつかる。

 唇の端から空気を吐きながら、彼女は口が裂けたような笑顔を作る。

「本当に『私のこころ』があれば、きっと大好きになれたのに!」


 気が付けば彼女の肩をつかんでいた。

 目の前で彼女の顔が崩れていく。赤くなった目が閉じる前に抱き寄せた。背中に爪が立つのと同時に、身体の震えが伝わってくる。


「……ごめん」

 口にした瞬間、腕の中で彼女の顔が振られる。

 たしかに彼女は本気だった。本気じゃないと自分が信じられないから。

 ごめん、と繰り返す。信じられるくらい夢中にさせてあげられなくて。

 いい、と彼女は言った。どうせ、きっと本心じゃないから。スイッチを切れば消えちゃうから。こんな瞬間すら、私は本気になれない悲しい生き物たちだから。

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