第4話

 隣の市に少し大きめの水族館があって、小学校のころまでよく行っていた。

 真っ暗なクラゲの展示室、回遊魚のトンネル、深海魚コーナーで加圧チャンバーのうなり声を聞きながら通り過ぎたあたりで、白い照明に浮かぶ出口のゲートが見えてくる。

 ミュージアムショップの奥には香水の瓶が並んでいた。さっき眺めたばかりの水槽の青さを再現したブルーの容器がきらきら光っていて、手前のサンプルからは少し苦みのきいた香りが漂っていた。


 潮風の香りです、とテロップには書いてあった。

 すぐ外の港はオイルくさい海水のにおいを放っているばかりだったけれど、まあ香水みたいな海もどこか探せばあるのだろうと思って、そういう青い水をした海を想像したものだった。

 だから今でも水族館と聞くとあの香水の匂いを思い出す。



「誰かに言われたん? そんなCisツィスばっかり吹いてさ」

 水筒の麦茶を飲んでいたら隣にユキが立っていた。

 いっぱいに詰め込んだ楽譜でぱんぱんになったファイルを片手にぶら下げて、つまらなそうにミンティアを口に放り込んでいた。僕が答えないでいると、彼女は小指の先で口をぬぐった。

「もう帰るのかい」

「ん、まあ。先輩もパートリーダーの招集かかっちゃったし」


 ちょうど校舎の方からもコーラス部の連中が出てくるところだった。

 向こうはバリトンやテノールがあるから、こっちと比べると男子もずいぶん多い。

「ひょっとしてコーラスの帰る時間と合わせた?」

「かもしれんね?」

 ユキはにやりと笑った。

 今の『彼氏』はコーラス部だったはず。毎月のように変わるからもう覚えきれない。

 まだ出て行く気配がなかったので、『ライド』の変拍子に切り替わった部分を吹き直す。音圧の細いフルートは大して目立たないパートだけど、元の音が高いから少しピッチがずれるだけで凄まじいノイズになる。


「初デート、どうだったん」

 ユキが空っぽになったミンティアのケースではらはらとスカートのひだを叩いた。

 僕が吹くのをやめると、細っこい彼女の手が伸びてきてチューナーの電源を落とした。


「見てたのか?」

「付き合いでカラオケに用があったんよ」

 ユキの手の上で、ミンティアのケースが跳ねる。

「ほら、ウチ歌がそこそこ上手いじゃん? だから、賑やかしにさ」

「こっちも楽しかったよ」

「そういうのって普通、もっと具体的に自慢せん?」

 さすが恋愛強者は言うことが違う。


「リンジ、独りで帰ったっしょ」

「だったらどうなんだよ」

「いやべつに。最後の最後で踏み込めない甲斐性なしなのはウチも知っとるし」

「ムカつくな、その言い方……」

「でも図星っしょ」

 ああ、と呟く。ユキも肩を派手にすくめてみせた。

「どうせいつもドのシャープが跳ねてるとか言われたんっしょ」

「言われた」

「バスケ部、階段のところでミーティングするもんな?」

「バスケ?」

 え、とユキが顔をしかめる。

「付き合ってる相手の部活とか聞かんの?」

「ああ……真春さんって、バスケだったのか」

 数秒ほど間があった。


「リンジ、あの。本当に付き合っとるん?」

「そのつもりだった」

「つもり、って?」

 自分が苦い顔になっていくのが分かった。

 僕は単純だ。もし好きなら、もっと浮かれてる。そんな気分になれないってことは、今考えてることはきっと本心じゃない。


「中学の頃、クラスにいつもぼんやりしてる女子がいたんだよ」

「ほう」

「たぶん気になってた」

「へえ。で?」

「別に」と唇の端をねじ曲げる。「僕は気になってた、向こうはどうでも良かった。それで終わり」

「昔の話するならオチくらい付けないん?」

「ごめん、本当にそれだけなんだ」

 ユキは今度こそ去って行った。少し怒っているように見えたから、からかったと思われたのかもしれない。


 フルートを分解しながら、そういや階段の上のアリーナから物音がしないな、と思った。

 バスケの部活はとっくに終わっているらしい。

 スマホを見たけど、着信はなかった。幸いに、と思ってしまう自分がなんだか嫌だった。

 今度も『それで終わり』になろうとしている。僕からアクションを取らないあいだにチャンスは勝手に逃げて行って、それを僕は「どうでもいいことだった」と済ませてしまう。


 本当は分かっている。

 行動しないと世の中、何も動いちゃくれない。

 もし幸運が勝手に来るとしたら、あまりに出来すぎている。


 荷物をまとめて昇降口から出たとき、扉に寄りかかっている女の子に気が付いた。

 もう何分も待っていたらしく、無表情に足元を眺めながら、重たそうなかばんを相変わらず蹴っていた。その動きに合わせて、『こころ』の入ったバッグが肩でゆらゆらと揺れている。

 僕が隣に立っても、彼女はかばんを蹴るのをやめなかった。

「連絡を入れてくれたら急いだのに」

「やっても良かったけど、断られる口実を作りたくなかった」

 ミラが顔を上げる。昔から変わらない細い顔が、少しくたびれた風に笑った。


「土曜日も言ったけどさ、私本気だから」

 分かってる。伝わってる。

 でも、それだとたぶん僕には不充分なんだ。

「そろそろ、本当のことを言ってほしい」

「ん?」

 彼女のかばんを手に取り、肩にかける。資料集を入れているみたいで思ったより重い。

「途中に公園があるだろ。ちょっと、話し合いたいんだ」

 彼女の「お」という形に開けた口が、ゆっくりと笑みの形になっていく。


「分かった」

 ミラはささやくように言った。

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