第3話

 同じパートのユキに服のことを尋ねたときは、宇宙人でも見たような顔をされた。

「パジャマとジャージと制服以外なら何でも良いんちゃう?」

「ウチのクローゼットの中は黒一色なんだよ」

「ジーンズくらい無いん?」

 ボロいのが一着あると言うと、じゃあそれ着て行けと言われた。


 そういうわけで、今の僕はジーンズに灰色のシャツと黒いジャケットの量産型ファッション。

 タンスの奥から引っ張り出したジーンズは書道紙みたいに白けていて、着るのに少し勇気が必要だった。上も似たようなもので、丁寧に整えても裸よりはマシという程度にしかならなかった。

 まあ、それでも待つあいだにとりあえず手を突っ込むポケットがあるのは悪くなかった。


 かっこつけてエスカレーター脇の柵に寄りかかり、目だけで辺りをうかがう。

 特にめかし込んだわけじゃないけど、そこまで違和感はないはず。「マシ」に見える顔の作り方もトイレの鏡とにらめっこして覚えた。一日くらいなら保つだろう。

 減点法で七〇点。加点法だと四〇点。

 カッコつける必要はない、僕にはそれが限界だ。


 腕時計で確認すると、待ち合わせの時刻まで二〇分を切っていた。

 最後にまた鏡を見に行こうとしたとき、視界の隅で白いものがひらひらと動いた。

 フードコートのゲートで女の子が手を振っていた。キャップを深々とかぶっていて、僕と目が合うなり帽子の下から覗いたくちびるがニヤリとひん曲がる。

 やあ、と薄い色の目が細くなった。


「思ったよりマメな人だったんだ?」

 今日のミラはふわりとしたフレアスカートとブラウスという姿だった。

 自販機で買った炭酸水をぐいっとあおって、へへっと少しくたびれた風に笑いかけてくる。

「いつから……」

「どう答えたら嬉しい?」

 さあ、と呟いて隣に並ぶ。ここから眺めると休日のショッピングモールは親子連ればっかりだ。


「こういうの、迷うよね」

 ミラがぼそっと言う。

「何が」

「ほら、時間のこと」

 彼女の濡れた口元をブラウスの袖がぬぐった。

「あんまり待つのは気合が入り過ぎててハズいし、ギリギリだと相手への思いやりがない」

「いちいちフクザツだな。好きにしたらいいじゃないか」

「で、そう言うリンジの『好き』は一時間と三分前だったわけね。なるほど」

 今回もずっと待ってくれていたらしい。

 本当にこの人、どこまでマジメにやってるんだろう。


「さっきまで下見に行ってたの」

 そう言って、彼女はハンドバッグから小瓶を取り出した。

 小さな青いボトルだ。上にノズルが付いてる。

 彼女がフタをゆるめると少し苦みのある香りが広がった。潮風の香水、だろうか。

「良い趣味してる」

「でしょ?」

 彼女はからからと笑って、さっさと歩きだした。



 化粧品店は服屋の隣にあった。

 お隣に負けないくらい派手な内装で、水耕栽培の棚みたいにライトアップされたショーケースに小瓶がずらっと整列している。彼女の買った香水は目立つ場所に置いてあって、すぐに見つけられた。


「『オーシャンソルト』と『ブルーミングチェリー』だってさ」

 通路の柵に寄りかかりながら、彼女はまだ手の中で香水の瓶を回していた。

「ニオイで選ぶものに名前ばっかり凝っちゃってね」

「ああいうのって買う人に向けた宣伝だろ?」

「そ。まんまと引っかかっちゃった」

 ミラはつまらなそうに香水を仕舞い、また炭酸水を飲んだ。

 彼女の白い喉がわずかに震えるのを眺めていると、肌の色がわずかに紅くなった。


 少し、目線を上げる。彼女も呆れたようにこっちを見ていた。

「クラスでも気になってたけど。私のこと、ゲージュツみたいに見るよね」

「ああ……ごめん、露骨だったかな?」

「別に。でもちょっとムカつくかも」

 キュッとペットボトルの蓋が閉まる。

 ミラは少し考える素振りをしてから、自販機の前の丸テーブルに着いた。カジノのディーラーみたいに向かいの席を示して、僕にも座るように促してくる。


「あー、失敗したな……」

 彼女はドンと肩掛けバッグをテーブルに乗せた。半分ほど開いたファスナーの内側で、例の機械がちかちかと点滅している。相変わらず場違いすぎて居心地が悪い。

「失敗と言うと?」

「私、ずっとドン引きされてるでしょ。違う?」

 バッグの上で、彼女の指がピアノでも弾くようにタップを打つ。

 コツコツと響く音に、しばらくして派手なため息が重なった。

「リンジと私、同じくらい『好き』合ってるのかなーって思ってた。でもリンジってアレでしょ、本気にならないシュギ? なんか何でもアソビにしちゃうよねって」

「今の僕たちは遊んでるだろ」

「そう」彼女は疲れた風に微笑んで、「ニンゲンに合わせるの、本当に難しいな?」


 チキチキと『こころ』が音を立てる。

 その音が止まった瞬間、ミラは大きく息を吸った。


「フルートマスターズだよね」

 今度は僕が息を呑む番だった。

 ふふ、とミラが笑う。


「楽器のメーカー名、マンガみたいな名前だからすぐ覚えちゃった」

「え……?」

 首のあたりを熱いものが這うのが分かった。

 彼女の『こころ』が緑色のランプを光らせる。

 あんなに騒がしかった周りが急に遠いもののように感じられた。枕を押し付けられたみたいにくぐもった耳に、彼女の淡々とした声だけがやけにクリアなまま飛び込んでくる。

「一発で音の高さが合ってても、いちど低い音で確かめる。で、ひとつずつ音を上げていくとき、いつもドのシャープだけ上擦る癖がある。パート練習のときに使うメトロノームは白いヤマハがお気に入り……」



 終わってみれば独りで自販機にもたれかかっていた。

 彼女が飲んでいたのと同じ銘柄の炭酸水をぶら下げて、何をするわけでもなく、ただぼんやりと佇んでいる。ボトルがやけに軽い気がして持ち上げると、すでに半分ほど飲んでいた。


 小さくげっぷをして、ひたいをぬぐう。

 まだミラの高い声が耳に残っている。

 ひと通り僕の癖を言い当てたあとで、彼女は荷物をまとめて去って行った。


「言っとくけど、私、本気だから」


 ふた口でボトルは空になった。

 震える指でゴミ箱に押し込み、手持ち無沙汰になった手をジーンズのポケットに突っ込んで、ようやく音を取り戻してきた辺りを見渡す。

 さっきと客の顔ぶれは変わっていないように思えた。

 どうやらとんでもなく短いデートになってしまったらしい。


 化粧品店に入り、さっき彼女が買っていた香水を手に取る。

 同じメーカーのものと比べると、少し凝ったデザインの瓶に見える。

 傾けるたびに瓶の溝に合わせて水泡が動いていく。青く透けたガラスの向こう側で、苦い香りの液体がぐるぐると回っていく。


「プレゼントですか?」

 ぼうっと眺めていると店員さんが話しかけてきた。とりあえず曖昧に笑って、瓶を棚に戻す。

「いや。知ってる香水に似ていたので」

「なるほど」

 と店員さんが笑う。

「それ、水族館のミュージアムショップ用に作られたんです。今年になって復刻されまして」

「あ……八年前くらいですか?」

「たしか、その辺りだったかと。買われます?」

「どうしようかな。ちょっと独りで考えときます」


 店員さんが他の客に向かったのを見てから、化粧品店を出る。

 腕に鳥肌が立っていた。

 水族館のミュージアムショップ。忘れるわけがない。好きだった場所だ。よく行っていた。


 真春ミラは、確かに本気だった。

 どこまで知ってるんだ。

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