第2話
畳んだ譜面台を楽器庫の隅に突っ込み、ぼろぼろの『アルテ』の三巻を隣の本棚に収める。
はあ、と屈んだ拍子に息が漏れた。
ため息は朝から通算十回目。そろそろ魂まで抜けてしまいそうだ。
まったく。
告白された翌日って、普通は世界がキラキラ輝いて見えるもんじゃないのか。
真春ミラ。肩までの茶髪、薄い色の瞳、低めの背丈。
昨日までは名前を知ってるだけの他人で済ませていた。
どうやら彼女にとっての僕は違ったらしい。
「また明日ね」
別れ際まで彼女は台本通りに名優だった。
以来、ずっと僕は大根役者をやらされている。
授業中はぼんやりと彼女の後頭部を眺めていたし、そうじゃないときはバカみたいに自分の指を見つめていた。休み時間に目が合うと、彼女は「どう?」と言いたげに 軽く首を傾けてきた。
そうだね、楽しいよ。おかげさまで。
今だってキンキンに冷えたフルートから掃除棒を引っこ抜きながら、彼女の指を思い出している。
あんなに手が冷えるまで僕を待ってたなんて。
そういえば真春さん、今日もバッグを机の横に掛けていた。ってことはまだあの水槽みたいな「こころ」が中に? 嘘だろ。ヒトのこころって、そんなパカッと取り外せるのかよ。
「訳わかんないぞ……」
さっきアルペジオでペコペコ言っていたキイを思い出してクリーニングペーパーを取り出すと、残り三枚しかなかった。チューナーも配線がバカになっていて、今朝から動作が怪しい。
こっちまでシケてやがる。まったく厄日以外のなにものでもない。
「今日も冴えないツラしてどうしたー、後輩!」
がつん、と目の前のラックにトランペットのケースが置かれた。
後ろからマウスピースをブルブルと鳴らす音が響く。音ばっかりデカく鳴らすバック製のトランペット――サヨノ先輩の相棒だ。
「どうした、って。男の悩みってやつですが」
「何よそれ。青二才が恰好つけちゃってさ」
サヨノ先輩はにこりともせずに布巾を手に取った。
トランペットと一緒に紙袋が置かれ、先輩のシラウオみたいな指の中でくしゃくしゃと丸まる。
「先輩だって、またやらかしたんですか」
「うん?」
「それ」僕は紙袋を指した。「……過呼吸っすよね」
「あ、うん。そ。かこきゅー……」
先輩は薄い唇を尖らせて、紙袋をそそくさと上着のポケットに突っ込んだ。
平安美人みたいな丸っこい横顔が赤くなっていた。僕が見ていると、先輩は大げさに息を吐いた。
「ヘタに神経が細いと損だよね」
素が出るときだけ、この人の声はアルトの低音ボイスになる。
でも、一瞬だけ。次に口を開くときには「なんちゃって」とキンキン声に戻っている。
天才的な変人。
半年経った今でも、何を考えているかサッパリだ。
だいたい「激しい曲だと過呼吸になるから」って理由で指揮者になった人なんて聞いた事がない。
しかも高校から吹奏楽を始めたようなズブの素人なのに、土日に一時間やった練習だけで右手と左手それぞれ同時に四拍子と三拍子を刻めるようになったらしい。
「みんな出来てるんだから、手足と頭の勘定さえ合っていればセンスとか関係ないでしょ」
と先輩は言うけれど、たぶん僕とは生物種として別の生き物なんだろう。
「今さら言うのもアレですけど『ディープパープル』こそ指揮に回った方が良いんじゃないすか」
「で、あたしにヘイゾの『ライド』を吹けって?」
先輩はマウスピースをケースに戻しながら、フンと鼻を鳴らした。
「まあ、死ぬでしょうね」
『ライド』もずっとパパパーと吹きっぱなしになるような曲だ。この人なら初めの十秒でゼエゼエとやり始めるに決まってる。
「分かってるなら、後輩が偉大なるセンパイの努力に口出ししないの」
先輩が片手を差し出してくる。
僕が用意していた今月のバンドジャーナルを渡すと、先輩は「いつもありがとね」と唇の端を曲げてきた。
「本屋に寄ってくれるの、ウチの部だとリンジだけだからさ」
「放課後がヒマなだけっす。クラスじゃダチも少ない方ですし」
「ではお返しだ。友達の少ない
さあさあ、とわざとらしく腕を広げるサヨノ先輩。
つくづくジョークの合間に人生をやってるような御仁だと思う。
「告白されたんですよ、クラスのやつに」
僕は顔をしかめながら、サヨノ先輩が渡してきた雑誌代をポケットに放り込んだ。
ポチ袋の中の百円玉が多い。今回も色を付けてくれたらしい。
「へへー、文化祭らしいね! セーシュンじゃん」
「バカにしてませんか? 僕、シリアスなんですが……いや、いいです。で、ちょっと信じられないことがあって、向こうが本気かどうか判断できてないって状況でして」
「んー……ちょっと」
いきなりがっしりとあごを掴まれた。
サヨノ先輩のさらさらした指が僕の顔を右に振り、それから上上下下左右とゲームのコマンドみたいに動かす。最後に僕の鼻先をAボタン代わりに押すと、先輩はふーんとうなった。
「たしかに悪くない顔よね。よく見ると整ってる方だし」
「よく見ないと分からないのは、世間じゃ並顔って言うんですよ」
「じゃあ特徴が無いのが特長だ!」
それはそれで褒め言葉じゃない気がする。
楽器庫の隅にある姿見に向かって睨むと、『ちょっと頑張った量産型です』って感じの面構えが見つめ返してきた。減点法で七〇点。加点法だと四〇点。好き嫌いは別として、まさに僕。
「とにかくさ――」
先輩が指を鳴らしたのとほぼ同時に、胸ポケットの中でスマホが震えた。
スリープモードを解除するとショートメッセージがまた来ていた。
『正門来て。話したい』
「あ……誘われました」
「ん、誰から?」
先輩が午後ティーのペットボトルを傾けながら眉を上げる。
「ですから、例のカノジョ……」
ブーッ!と楽器庫に綺麗な虹がかかった。
びしょ濡れになったあごがぬぐわれ、まん丸になった目がぱちぱちと瞬きする。「え、あ、えう?」と高い鳴き声が漏れるたびに先輩の右手で、午後ティーが工事現場みたいにがたがたとシェイクされていた。
「告白ってマジな話だったの⁉」
やっぱりこの人にシリアスは無駄だ。僕は肩をすくめて、楽器庫を出た。
†
真春さんは校門の鉄柵に寄りかかっていた。
例の装置の入っているカバンを肩にかけて、それとは別に教材入りのスクールバッグを地面の上に転がしている。僕が隣に立っても彼女はしばらく気が付かない様子で、ローファーを履いた足でバッグを軽く蹴りつけていた。
今日の『台本』を練習しているらしい。
考える彼女の横顔は、教科書のモナリザとか、昔の仏像に少し似てる。アルカイックスマイルだっけ。唇には笑みを貼り付けてるのに、目だけは真剣なまま、特に何もない虚空を見つめている。
やがてバッグを蹴る音が止まった。
「てっきり来ないと思ってた」
彼女がこっちを向く気配があったので、僕は空を見上げるふりをして視線をずらした。
「来るよ。真春さんは待っているんだから」
「ただの苗字呼びとか、同じクラスなのにまるで他人みたい」
「ミラさん」
「まだ固いな?」彼女はふう、と息を吐いた。「リンジ、もう二十四時間だよ」
「何が……」
「付き合ってから」
ミラはガンマンみたいにポケットからスマホを抜いて、くるりと回した。
ぴたりと止まった丸い端が銃口のように僕を指す。
「ね?」
「だって、クラスじゃひと言も話さなかった」
「うん。つまんないよね」
彼女はまだこちらを見ている。
観念して僕が顔を合わせると、彼女の目が初めて笑みを作った。
「昨日はちゃんと寝れた?」
「いや、まったく」
「私のことを考えてたせいで?」
「さあ……」言いかけたとき、真春さんの目が光った。「ああ、そう。ずっと考えてた」
「じゃあきみの睡眠時間は私が独占できたわけだ」
彼女はうんうん、といかにも嬉しそうにうなずいた。
「一日の四分の一の付き合いって、名前から『さん』が取れるには充分じゃない?」
「……ミラ」顔から火が噴きだしそうだ。「昨日のことだけど、あれって本当に――」
「今週の土曜日、空いてる?」
彼女はさっさとスクールバッグを担ぎ上げた。
重そうなショルダーバッグとぶつかって、くぐもった音が鳴る。
わずかにミラは眉をひそめた。
「ああ……でも」
「買い物に付き合ってほしい」
「分かった。それより」
「……それとも今は別れ話をしに来てたり?」
一瞬だけ、奇妙な間があった。そのあいだにミラが二度まばたきする。
「いや」と僕は呟いた。
「そう?」
「そのつもりだったらメールで済ませるよ。面と向かって切り出したくない」
「うん、そう言うと思った」
彼女は白い歯をのぞかせた。
「だいたい安っぽい恋愛ドラマって『もっと知りたい』って言うけど、『あなたがわかる』っていうのも嬉しいね。大発見かも」
僕には今のあなたがサッパリ分からないのですが。
「楽しみだなー?」とわざとらしく言いながら、ミラはさっさと帰って行く。
その薄い肩に彼女の『こころ』ががつんがつんとぶつかっていた。
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