心仕掛けのピュグマリオン

平沼 辰流

第1話

 人生は決断できるうちはだいたい間に合う。


 とにかく、まずは決めることが大事だ。出遅れると欲しかったものは手前のやつに取られ、過ぎたものは手遅れになってから「あ、欲しい」と思い始める。じゃあ今やるか。いやいやちょっと待て、それっておまえが本当に欲しいのか?

 まるで安い回転寿司だ。

 二皿、三皿。

 なんとなく食べたかったものを重ねて、「おあいそ」で終わり。ヒイヒイ言いながら店を出たときには結局、僕はあんなものを食いたかったんだろうかとアゴをさすりながら考えている。

 でも欲しいモノがあるなら、受け身じゃいつまでも流れてこない。それは確かだ。


 というわけで高校デビューで始めたことがいくつか。

 SNSにアカウントを作り、吹奏楽部に入って、ソシャゲをひとつ新しくインストールした。

 出だしは悪くなかったと思う。


 で、半年ちょっと過ぎて得た教訓はふたつ。


『世の中、やっぱ半分はどうでもいいことで出来ている』

『残りの半分もよくよく考えたら別にどうでもいい』


 SNSは変なリストに入れられたくらいでバズった経験も無し。入った部活は地方どまりの下下の下。ソシャゲも絵だけは良かったが伸びず、四半期決算の九月にサービス終了した。

 古文の教科書にいわく、行く川のながれは絶えずして、しかももとの水にあらず。

 すべては止まることなく過ぎていく。とても極められる時間なんて無い。



「どした?」

 同じ一年のユキが、フルートの頭部管に掃除棒を突っ込みながら言ってきた。背の高い彼女が手を動かすたび、立てつけの悪いパイプ椅子がガタガタとタップダンスをしていた。

 僕がスマホから顔を上げると、彼女はうながすように首を傾けた。


「ああ。なんか呼び出しくらった」

「また何かすっぽかしたん?」

「クラスの方だと思う。ウチの女子からだ」

「へえ」ユキがにやにやと笑いだす。「モテるじゃんけ、リンジ」

 ち、と舌打ちして愛用のマスターズをケースに収める。

 女っけが無いからってからかってくる。この人はいつもこんな調子だ。


 日本人離れした彫りの深い人相に、楽器が似合う長い指。

 性格も悪くはないと思う。僕と違って、クラスの人望もある方だ。

「まったくこんな時間にさ……参ったな」

「パートの記録はウチが付けとくから、はよ行ってき?」

 と、ユキはギリシャ彫刻みたいに整った顔でウインクしてくる。

 クラスの男子を撃墜してきた必殺機動リーサルマニューヴァだ。もちろん慣れている僕はすぐさま視線をスマホへとブレイクさせた。

「悪い。今度また埋め合わせするよ」

 軽く手を合わせてから、楽器ケースとスクールバッグを肩に引っ掛けて、そそくさと退室する。


 下駄箱でローファーに履き替えながら、またスマホの画面でショートメッセージを確認する。


『駐輪場で待ってる』


 ぎゅ、と耳のあたりが熱を帯びるのが分かった。

 初めて見たときは時間が止まった気がした。

 画面を見返して、『真春 マハルミラ』という差出人の名前を何度も確かめる。

 角ばった文字を見ながら、そういやさっき電話番号を教えたな、と思い出した。クラスの演目でやるミュージカルのBGMと効果音の調達を頼まれて、ラインのアカウントと一緒に交換したやつだ。


 クラスのグループじゃなくて、僕宛のメッセージ。

 たぶん時間もたっぷり取るような予定なんだろう。


 そして暗くなった駐輪場で真春さんの姿を見つけた瞬間、いよいよ熱は耳から首まで広がった。沸騰寸前になった頬の上で、寒くなってきた夜風がシュワシュワと音を立てている。

「あー……」

 彼女に近付きながら頭の中でシミュレートする。


 見たよ、メッセージ。打ち上げの話なのかな?もっと適任いると思うんだけど、相談なら乗れるかも。あ、駅前に海鮮屋がオープンするんだってさ。あそことか良さげじゃないか?


「来てくれたんだ」

 即興で用意した言葉を声に出す前に、彼女が振り向いてしまった。


 僕は「み」の形で止まった唇をゆっくりと元に戻しながら、すっかり腫れぼったくなった舌の置き場をずっと考えていた。こんなに狭い口してたっけ、僕。

「うん。ラインじゃなかったから驚いたよ」

「普通にやることじゃないと思ったの。ムードって大事じゃない?」

 彼女の声は淡々としていて、台本を読んでいるみたいだった。

 返す言葉を探すうちに、彼女のローファーがカツカツと詰め寄ってくる。そろそろと僕が視線を上げると、真春さんの微笑があった。

「……ね?」


 どうやら僕が思い描いていた脚本はたった今ズタボロに破れてしまったらしい。ここからは彼女の台本通り。

 さっきから胸の内側から心臓がバコバコと肋骨をへし折りにかかっている。

 蛍光灯の下だと、真春さんの顔の白さがよく分かった。

 やつれ気味の輪郭がツンと尖ったあごで結ばれ、肩口まで伸びた髪といっしょに綺麗な縦の線を揃えている。向こうも部活帰りらしく、ひたいが汗で濡れそぼっていた。


「それって、その。勘違いして良いということかな」

「勘違い?」

 彼女のアメジストみたいに薄紫がかった瞳が、ひとつまばたきをした。

 その濡れた角膜に、汗だくの僕が映っていた。情けない顔でへらへらと苦笑している。

 見るうちにだんだんムカついてきた。表情を元に戻して、軽く地面を蹴る。


「だから……ああもう、そういうことだよ。分かってるんだろ?」

「分かんないな?」

 彼女はくすくすと笑いだした。「ごめん、ちょっと言ってみて」


 その、と言う前に真春さんの方から歩み寄ってきた。

 パーソナルスペースを軽々と踏み越えて、向こうのスカートとこっちのスラックスが擦れあう距離まで詰めてくる。彼女の伸ばした髪から制汗剤の甘酸っぱい香りがした。


 彼女の目が鼻先すぐの距離にあって、思わず咳払いをした。心臓がますます痛い。

「ね、なに?」

「だから……告白してくるのかと思っていた」

 真春さんの薄い色の目が少しだけ大きくなる。

 その意味を僕が考えていると、彼女はまた笑い出した。


「正解」彼女は片手で髪をすいて、「先に言われるの、けっこう悔しいな?」

「サプライズなら教室に呼び出すべきじゃないかい」

「だったかも。ここじゃ演出しすぎだよね」

 彼女が一歩だけ下がる。その肩越しにスカスカになった駐輪場が見えた。

 もう生徒はほとんど帰っている。

 この人、いつから待ってくれていたのだろう。


「まあ……ありがとう」

 僕は汗まみれになった髪に指を突っ込んで、がしがしと掻いた。

「なにが?」

「だから……そのままの意味。びっくりしたけど。勇気とか要ったんだろ?」

「うん。今もとっても緊張してる」

 彼女はバッグを肩から外した。さっきから重たそうに抱えているショルダーバッグだ。両手で胸の前に持ってきてから、彼女は少しためらったようだった。

「……今日、言えて良かった」


 ゆっくりとバッグのファスナーが開き、中から銀色の箱が取り出される。

 形は外付けのハードディスクドライバに似ている。サイズとしては小さな水槽ぐらいかな。ふたつの緑のランプが点滅するたび、彼女の手の中でチキチキと駆動音を立てていた。

「ねえ、触ってみて」

 言われるままに指が伸びる。

 触れた瞬間、柔らかな熱が指先に伝わった。金属に見えた外装パーツもプラスチック製で、込めた力に合わせてわずかにたわみ、分厚いケースの内側にある何かの振動が少しだけ強くなる。

 手を離したあと、しばらく指を見つめていた。

 何故か湿っていた気がする。心臓とか、内臓に手を突っ込んだような。でも不快感はなかった。


「これは?」

「こころ」

 真春さんの瞳が細くなった。箱のランプが反射して、長いまつげの下側がグリーンに光る。

 辺りに静けさが広がる。

 これは冗談を言っている目じゃない。


 でも……『こころ』?


 じっとりと手のひらが汗ばんだ。

 震え出した指に、彼女の細い指が重なる。

 秋風にさらされて、ぞっとするほど冷たくなっていた。

 僕が固まっていると、真春さんの唇が小さく動いた。


「私のこころ、外付け式なんだ」

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