スマホを忘れた日

野森ちえこ

たからもの

 スマホを忘れた。

 どうするよ。電車乗っちまったよ。乗るまえに気づけよ。

 とりにもどるか? 遅刻確定になるけど。

 もどって連絡して遅刻するか、このまま行って時間を守るか——って、これ急行だよ! となり駅たった今とおり過ぎたよ!

 ということは、だ。へたしたら一時間以上遅れることになる。

 このまま行くか。

 いやしかし。あいつは遅刻魔だ。時間どおりにきたためしがない。やっぱりもどるか。いや、でもな……。


 通話から支払いまで今はなんでもスマホでできる。逆にいえばスマホがないとできないことが増えている。

 それがなんだか不気味に思えて、オレはスマホ決済をつかっていない。だからスマホがなくても出先での支払い手段には困らない。

 ではなにが困るかといえば、遅刻魔のあいつと連絡がとれないことだ。

 これまで最大でどれくらい待たされたんだったか。一時間、いや二時間……三時間だったか?

 いずれにせよ、あいつは時間の逆算ができない。どれほど余裕を持って準備をはじめても、なぜか出発予定時間ギリギリ――ならまだいいほうで、大幅にすぎてしまうこともめずらしくない。それにくわえてバカがつくお人好しだ。困っている人間を見ると自分の都合なんてどこかに消えてしまう。

 発達になんらかの特性があるのかもしれないが、もうずっとそんなあいつとつきあってきたオレとしては、それも含めてのあいつだと思っている。

 そうだ。たとえどんなに遅れても必ずくるのがあいつだ。遅刻前提だから、あいつとの待ちあわせはゆったり座れるカフェ限定である。もちろん今日も例外ではない。文庫本の一冊も買っていけば待ち時間もつぶせるだろう。

 あいつはオレに連絡がつかなくてあわてるかもしれないが、それくらいは遅刻のペナルティってことで。

 よし! きめた。このまま行こう。


 ◇


 すげえ。青い空に真っ白なうろこ雲がびっしりだ。


 スマホがないと電車では外を見るくらいしかやることがない。

 携帯やスマホがなかった時代はこういう時間なにをしていたんだろう。

 外を見る、寝る、本や雑誌を読む、音楽を聴く、人を見る、路線図を見る、今なら電車内ビジョンを見るなんてのもあるか。考えごとをする、ぼーっとする。

 なんだ。けっこう思いつくものだな。なければないで、それなりにすごせるものなのかもしれない。

 そういえば子どものころ、なにかで夜にバスに乗ったとき、まるでバスと月が並走へいそうしているように見えて不思議に思ったことがある。バスは走っているのに、月がずっとおなじ位置に見えるのが不思議でしかたなかった。

 単に、遠くにあるものは自分が動いても距離や見える方向があまり変わらないというだけ、つまりは錯覚の一種らしいのだけど、妙にワクワクしたことを覚えている。

 今、空に敷きつめられている白い雲を見て、あの頃とおなじようにワクワクしている自分がいる。たまにはこういうのも悪くない。


 ◇


 店にはいってすぐ「紅樹こうき、こっち」と、ひかえめに手を振るりつをみつけて仰天する。


「おまえ、なんでいるんだよ!」


 ありえない。こいつが先にきているなんて。なんなら時間つぶし用の本を買っていたオレのほうが五分ばかし遅刻したなんて。しかもすでにティーカップが出てるし。


「だって呼びだしたのおれだし」

「いや、そうなんだけど。でも律だぞ?」

「紅樹、人間は成長するんだよ」


 確かに会うのは二年ぶりくらいだけども。中学の同級生だから、なんだかんだでもう十六年のつきあいになる。ついでに元義弟——ひとつ下の妹、照葉てるはの元夫――だったこともある男だ。

 几帳面で段どり屋なところがある照葉いわく『おなじ家で暮らすにはリズムが致命的にあわなかった』らしい。

 オレからしたら、最初からうまくいくはずのない二人だった。

 律は顔がいい。細身で背も高い。対する照葉はめんくいである。

 見た目こそがすべてであるといわんばかりに、律の特性を軽視した照葉は自業自得だし、つきあうのはいいけど結婚はやめておけというオレの忠告を無視した律もやっぱり自業自得だと思う。

 なんにせよ、こいつの遅刻グセはそんな簡単に矯正きょうせいできるもんではないのである。

 つーか明日あたり嵐でもくるんじゃねえか。そういえばうろこ雲って雨が降る前兆だとかいわれてるんだっけ。

 とりあえず水をもってきた店員にコーヒーをたのんで着席する。

 しかしなんだ。スマホをとりにもどらなくてよかった。いや、マジでよかった。


「で? ほんとうのところは?」

「信用ないなあ」

「律だからな」

「ひどい。まあ、今日はちょっと家でじっとしてられなくて。だいぶ早く出てきたから」


 こいつはいつも困ったように笑う。むだに顔がいいものだから、それが妙に絵になったりする。


「なんでだよ。なんかあったのか」

「うん、いや、そうだな。えっと、まずはこれ、受けとってください」


 律はなぜだか急にあたふたしだした。そして、まるで賞状のように両手で差しだされたのはA四判よりすこし小さいサイズの——画集だろうか。

 なぜいきなり敬語。とツッコめないくらい、その顔は緊張している。

 表紙には机の上に置かれた写真立てが描かれていた。写真には数名の男女の姿がある。

 よくわからないまま受けとって最初のページをひらく。すぐに手がとまった。

 曇天の下、道端にぼんやりとたたずむ少年の絵と添えられている言葉にハッとする。

 ——ぼくは時間が守れない


「まさかこの本、律が描いたのか……?」

「うん」


 確かにむかしから絵はうまかったけれど、なんだか信じられないような気持ちでゆっくりページをめくっていく。


 ◇


 どれくらい時間が経ったのか、いつのまにか夢中になっていた。知らないうちに運ばれていたコーヒーがぬるくなっている。

 最後は、窓からそそぐやわらかな光に照らされた少年が、机の上で自分の腕を枕に微睡まどろんでいる絵だった。最初のページとおなじ少年だ。

 添えられている言葉になぜだか胸が熱くなる。

 ――しあわせ

 本をとじ、あらためて表紙を見る。


『たからもの』


 シンプルなタイトルのそれは画集のような絵本というか、絵本のような画集というか。不思議な雰囲気がある作品だった。

 明確なストーリーはないし、文章も簡潔な言葉が時折はさみこまれているだけなのだけど、すべてがつながっているような、理屈ではなく感覚的に『物語』を感じる。

 ちなみに著者の名前は『Ritsu』となっている。こちらも本名をローマ字表記にしただけのシンプルさである。


「今日が発売日だったんだ。本になったら紅樹にはどうしても自分の手で渡したかったんだけど、実際に書店にならんでるのを見るまではなんか不安で。知らせるのが遅くなってごめん」


 もともとは照葉にすすめられてイラスト投稿サイトやSNSで公開するようになったのがきっかけだったらしい。


「先にひとつ確認。これ、出版社のほうでだしてくれたのか? 金とられてないか?」


 最近は出版をエサに作家に近づく、詐欺まがいの自費出版ビジネスが横行しているという話を聞いたことがある。


「うん、大丈夫。一銭も払ってないよ。おれも不安だったから書籍化の話がきた時点で照葉に相談したんだ。契約の内容とかもぜんぶ彼女が一緒にチェックしてくれたんだよ」

「そっか。よかった」


 夫婦としてはうまくいかなかった二人だが、別れたあとも友人としての交流はつづいているらしい。


「おめでとう、律」

「うん、ありがと」

「って、ちょっと待て。今日が発売日つったか」

「そうだけど」


 ガタンと席を立つ。こうしちゃいらんねえ。


「ど、どうしたの急に」

「買ってくる」

「え、いいよ、買わなくて。そのために持ってきたんだし」

「バカヤロウ。おまえのデビュー作じゃねえか。そんなの買うにきまってんだろうが」

「でも」

「でもじゃねえ。それはそれでもらうけど、オレが買いたいの。いいから待っとけ」


 ヤベえ。泣きそうだ。なんだこれ。

 めちゃくちゃうれしい。

 時間が守れなかったり、段どりが悪すぎたりする律は、いつもいつもウソつき呼ばわりされて、ときにイジメのターゲットにされたりしてきた。むだに顔がいいせいで、やたら女にモテるのも律にとっては悲劇だった。

 見た目のスマートさと現実の残念なルーズさと、マイナス方向へのギャップがおおきすぎて、律に好意を寄せる相手はいつだって勝手に『裏切られた』気分になるのだ。

 そうしていつも誰かに謝って、申しわけなさそうに生きてきた律が、自分の好きなことで認められたのだ。

 照葉のこともちょっと見直した。きっと二人なりの、ちょうどいい距離感をみつけたのだろう。

 カフェを飛びだして、さっき文庫を買った駅ナカにある大型書店に向かう。


 そういえばまだ感想いってねえ。

 思ったこと、感じたこと、もどったらちゃんと伝えねえと。律のことだ。きっと不安に思っている。

 うわあー、マジで泣きそう。ちょっと落ちつけ自分。

 足をとめ、おおきく深呼吸をして、空を見あげた。

 ——まぶしい。

 突き抜けるような澄んだ青が目にしみる。

 この秋の空を、きっとオレは一生忘れない。


     (了)


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スマホを忘れた日 野森ちえこ @nono_chie

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