漢王と滕公(夏侯嬰)

 先に述べたように、漢王ははいを過ぎて家室(劉邦は沛の出身)をおさめようとしましたが、しかし楚もまた人をして沛にゆきて漢王の家をとらさせました。家のものはみなにげ、漢王とあいまみえませんでした。


 漢王は道にのちの孝惠こうけい惠帝けいてい)、魯元ろげん公主こうしゅに逢い、載せてそして行きました。


 楚の騎がこの車を追いましたので、漢王は急がれたので、二子を車の下にしておとしました。


 滕公とうこう夏侯嬰かこうえい)は太僕たいぼく(車のことをつかさどる官)でしたので、常に車からおりて二人をおさめ載せました。このようなことが三回ありました。


 滕公は申しました。


「今は急いでいるといっても、だからといって(車を)駆るべきではない、どうしてこの方々を棄てようか!」


 そのために徐行(ゆっくり行く)しました。


 漢王は怒り、滕公を斬ろうとすることが十餘回でした。しかし滕公はついに保護をし、二子は危機を脱しました。


 別の文によると、漢王は急がれたので、馬がつかれ、虜(敵)は後ろにあり、常に両児を蹴られ、これを棄てようとされました。嬰が常におさめ、ついにこれを載せ、徐行して面を樹でふさいでそして馳せました。


 漢王は怒られ、行くに嬰を斬ろうとされること十餘でしたが、ついに脫することができ、孝惠、魯元を豐にいたらせた、とのことです。



 夏侯嬰という人は、沛の人です。沛のうまやの御をつかさどりました。使い・客を送って還るごとに、沛の泗上の亭を過ぎ(とおり)、漢王と語らって、いまだかつて日を移しませんでした(節度があったということ)。嬰はすでにして試みられて県吏に補されましたが、漢王とそれぞれしたしみました。


 漢王は戲れて嬰を傷つけることがありましたが、人に漢王のことを告げる(告発する)ものがありました。高祖は時に亭長であり、人を傷つけると重く罪されました。漢王はそのために(申し開きで)嬰を傷つけてないと告げました、嬰もこれをあかししました。


 のち獄の判決はくつがえりましたが、嬰は高祖が繫れたのに連坐させられること歲餘、むちでうたれること数百でしたが、ついに夏侯嬰のために高祖は(窮地を)脫しました。


 そういう人でした。


 のち数々の功を立て、この時は列侯(昭平侯)となり、太僕となっていました。そしてまた漢王を救ったのです。



 さて審食其しんいきは太公(漢王の父)、呂后(漢王の妻)にしたがって間行かんこう(ひそかに行く)して漢王を求めましたが、あいわず、かえって楚軍に遇いました。


 楚軍とともに帰り、項王は常に軍中に置いて(人質)となしました。

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