漢の社・稷を設ける、漢王に新城の三老・董公が説く

 二月癸未、民をして秦の社(土地神を祭る祭壇)・しょく(穀物の神を祭る祭壇)を除かせ、漢の社・稷を立てました。恩德を施し、民に爵を賜いました。


 ここ『漢書』の注では、「爵とは、祿位である。民に爵を賜い、罪をえると減ずることがある。」とあるのですが実際の運用は分かりません、ここの意味はおいておきます。


 蜀漢の民で軍事の勞苦に給するものは、また租稅することなからしむること二歲でした。


 関中の卒で從軍するものは、家にかえること一歲でした。


 民の年が五十以上で、行いを修め、衆をひきいて善をなすことができるものがあればげ、置きてもって三老となすこと郷に一人でした。郷の三老の一人をえらんで県の三老となし、県令・丞・尉と事をもってあい教え、また繇役ようえき・戍守(辺境の守り)することなからしめました。


 十月に酒肉を賜いました。


 さて三月となり、漢王かんおう臨晉りんしんより河を渡りましたが、魏王・ひょうが降り、兵をひきいてしたがいました。河內をくだし、殷王・司馬卬しばこうとりこにし、河內郡を置きました。脩武しゅうぶにいたり、陳平ちんぺいが楚からにげて來降しました。


 これらは先に述べたところです。


 そして漢王は南に平陰へいいんしん(渡場)を渡り、洛陽らくようにいたりました。


 新城しんじょうの三老の董公とうこうがさえぎりて王に説いて申しました。


「臣が聞きますに『德に順うものはさかえ、德に逆うものは亡ぶ』、『兵を出すに名(名目)なし、事ゆえに成らず』、そう申します。ゆえに申します、『その賊乱をなしたことを明らかにすれば、敵はそこで服させることができる。』、と。


 項羽は無道をなし、その主(楚の義帝)を弑殺しました、天下の賊にございます。


 それ仁なるものは勇をもちいず、義なるものは力をもちいず、三軍の衆が義帝のために素服し(素は白絹、喪に服し)、もってこのことを諸侯に告げ、このことのために東伐すれば,四海の內で德を仰がないものはございません。これは三王(夏、殷、周の王)の舉にございます。」


 漢王はおっしゃいました。


「善し、夫子あなた(のいうことに)は聞くところがないわけでない。」


 ここにおいて漢王は義帝のために喪を発し、たんして(半分の袖を脱いで)大いにこくし(泣き)、哀しみ臨する(大勢で哭する)こと三日でした。使いを発して諸侯に告げておっしゃいました。


「天下はともに義帝を立て、北面して義帝につかえた。今、項羽は義帝を江南に弑殺した、大逆無道である。寡人かじん(漢王)は親しくために喪を発し、兵はみな縞・素(ともに白い絹)をきている。ことごとく関中の兵を発し、三河(河南、河東、河内)の士をおさめ、南に江漢に浮かびてもってくだり、諸侯や王にしたがって楚の義帝を殺すものを擊ちたいと願う。」


 ここに東伐がはじまります。



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