周昌と周苛について、張良、漢王のもとに戻る

 さてこの歳、内史ないし(だいし?)のはい周苛しゅうかをもって御史大夫ぎょしたいふとしました。


 御史大夫とは、秦官では上卿に位し、副宰相の役をつかさどります。要職です。


 周昌しゅうしょうという人があって、沛の人です。その從兄を周苛といいました。秦の時にいずれも泗水しすい郡の卒史そつし(官僚)となりました。


 高祖が沛に起兵するにおよび、泗水郡の守・監を擊破しましたが、ここにおいて周昌、 周苛はみずから卒史として沛公に從い、沛公は周昌を職志(旗幟(旗印)を管理する官)となし、 周苛を客となしました。關に入るにしたがい、秦を破りました。沛公が立ちて漢王となると、 周苛を御史大夫となし、周昌を中尉となしました。


 項王は義帝をうながして(その国へ)行かせました、その群臣、左右のものは徐々に義帝にそむきました。


 漢・高祖(漢王)の二年(B .C .二〇五年)になりました。


 冬、十月、項王はひそかに九江きゅうこう衡山こうざん臨江りんこうの王をして義帝を擊たせ、義帝を江中に殺させました。


 このことは以前にも述べましたが、ここでは九江王のことが加わっています。


 義帝の記事は、『通鑑』は時期をここに比定しています。念のため、二重に記述しておくこととします。


 さて陳餘ちんよは三県の兵をつくし、齊の兵とともに常山じょうざん王・張耳ちょうじを襲いました。


 常山王・張耳は敗れ、漢に走り、漢王に廢丘に謁しましたので、漢王は厚く張耳を遇しました。


 陳餘は趙王をだいより迎え、また趙王となしました。趙王は陳餘を德とし、立てて陳餘を代王としました。


 陳餘は趙王が弱く、國がはじめて定まったがために、國にゆかず、留りて趙王の(もりやく)となりました。そして夏説かえつをして相國しょうこくとして代を守らせました。


 張良は韓よりひそかににゆきて漢に帰し、漢王は張良を成信せいしん侯となしました。


 張良は病が多く、いまだかつて特に將としませんでした、常に画策かくさくの臣となり、ときどきに漢王にしたがいました。


 漢王はせんにゆき、關外の父老を鎮撫しました。


 河南王の申陽しんようがくだり、河南郡を置きました。


 漢王は韓のじょう王の孫・信を韓の太尉たいいとし、兵をひきいて韓地を略させました。信は韓王・鄭昌ていしょう陽城ようじょうに急擊し、昌はくだりました。


 十一月、信を立てて韓王とし、常に韓兵をひきいて漢王にしたがいました。


 漢王は還りて櫟陽れきように都しました。


 諸將が隴西ろうせいを拔きました。


 春、正月、項羽は北に城陽じょうようにいたりました。齊王・田榮でんえいは兵をひきいて會戰し、敗れ、平原へいげんに走りましたので、平原の民は田榮を殺しました。


 項王はまた田假でんかを立てて齊王となしました。ついに北に北海にいきましたが、齊の城郭、室屋を燒夷し、田榮の降卒をこうし(穴埋めし)、その老弱、婦女を係虜けいりょし、過ぎるところ殘滅ざんめつするところが多くでした。齊の民はあいあつまりて項羽にそむきました。


 漢の將が北地ほくちを拔き、よう王の弟・章平しょうへいとりことしました。


 三月、漢王は臨晉りんしんから河を渡りました。魏王・ひょうはくだり、兵をひきいてしたがいました。


 河内かだいをくだし、いん王・司馬卬しばこうとりことし、河内かだい郡を置きました。


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