漢王、関中を奪還す、王陵と母

 ここにおいて漢王は大いに喜び、みずからも韓信をえることがおそかったとおもいました。ついに韓信の計をき、諸將の擊つところを部署しました。


 蕭何を留めてしょくの租を收め、填撫てんぶ(鎮撫)して諭告ゆこくし(さとし告げ)、軍の糧食を給させることにしました。



 八月、漢王は韓信の計をもちい、兵を引いて故道より出でて、よう王・章邯を襲いました。


 注によると、その不備をえんする(不意を襲うこと)を「襲」という、とあるようです。つまり漢軍は故道(おそらくかっての古道)をとおって雍王を不意うちしたわけです。


 雍王の章邯しょうかんは漢を陳倉ちんそうに迎擊しました。雍王の兵は敗れ、還走しました(逃げ帰ったということ)。止まって、好畤こうし(神霊を祀ったところ)に戰い、またまた敗れ、廢丘はいきゅうに走りました。


 漢王はついに雍の地を定め、東に咸陽かんようにいたりました。兵を引きて雍王を廢丘に囲み、諸將を派遣して隴西、北地、上郡の地をほぼ定めさせました。


 さい王・きんてき王・えいはみなくだり、その地をもって渭南いなん河上かじょう上郡じょうぐんとしました。


 將軍・薛歐せつおう王吸おうきゅうをして武關ぶかんより出でて、王陵おうりょうによって南陽に兵をしき、太公たいこう呂后りょこうを沛から迎えさせました。


 項王こうおう項羽こうう)はこれを聞いて、兵を發(発)して太公、呂后を陽夏ようかにふせぎ、すすむことができませんでした(記述が各書で違う部分がありますが、適宜、重複引用します)。



 王陵とは、もと沛の人でした。もともとは県の豪傑であり、漢王がいやしいときは、陵に兄事していました。


 陵はかざること少く、任氣にんき(男だて)にて、直言を好みました。高祖が沛に起兵し、関中に入って咸陽にいたるにおよび、陵もまたみずから党をあつめること数千人で、南陽におり、あえて沛公に從いませんでした(ここも記述が各書で違いますが、重複して引用します)。


 漢王が関中に還り項羽を攻めるにおよび、陵はそこで兵をもって漢に屬しました。


 項羽は陵の母を略取して軍中に置き、陵の使いがいたれば、そこで東をむいて陵の母を坐らせ、それで王陵を招こうとしました。


 陵の母はすでにひそかに使者を送り、泣いて申しました。


「老妾(母)のために(王)陵に語れ、謹んで漢王につかえよと。漢王は、長者なり、老妾の故をもって、二心を持つことなかれ。妾は死をもって使者を送らん。」


 ついに剣に伏して死にました。


 項王は怒り、陵の母をました。


 項王はもとの令・鄭昌ていしょうをもって韓王とし、そして漢をふせぎました。


 漢は張良ちょうりょうをして韓をとなえ(征服)させましたが、そこで張良は項王(項羽)に書をつかわして申しました。


「漢王は職を失い、関中をえんと欲しているのです、約のようであればすぐさま止まります、あえて東しません。」


 また齊、梁のそむくことをもって書を項王につかわして申しました。


「齊は趙とならびに楚を滅ぼそうとしています。」


 楚はこのために西へいく意がなく、そして北に齊を擊ちました。



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