漢王、漢中へいく、齊に反乱の火あがる

 先に述べたように、夏、四月、諸侯は下(麾下のことともいう)の兵をやめて、おのおの國につきました。項羽こううは卒・三萬人をして漢王にしたがわせて國にゆかせました。楚のものと諸侯の慕いてしたがうもの、数萬人は、県の南より(漢中へと)しょくの川と谷の中に入りました。


 張良ちょうりょうは送って褒中ほうちゅうにいたりましたが、漢王は張良を韓に帰らせることにしました。


 良はそこで漢王に說いて申しました。


「王はどうして過ぎるところの棧道を燒絕しょうぜつ(焼いて断つ)し、天下に還る心のないことを示し、そうして項王の意を固められないのですか。」


 そこで良をして還らしめました。行くごとに、棧道を燒絕しました。


 ちなみに注によると、さんとはつまり閣で、今はこれを閣道と言っている、思うに、木を架けてこれをつくったからだ、とのことです、木でつくった通路でしょうか。それを行くごとに焼いてしまったわけです。



 さて田榮でんえいは項羽が齊王・膠東こうとうに徙し、そして田都でんとをもって齊王としたことを聞いて、大いに怒りました。


 五月、田榮は兵を発して田都をふせぎ、擊ちましたので、田都は楚へにげ走りました。


 田榮は齊王・市を留めて、膠東にゆかしめませんでした。


 田市は項羽をおそれ、ひそかにげて國にゆきました。


 田榮は怒り、六月、追って田市を即墨そくぼくに擊殺し、みずから立ちて齊王となりました。


 この時、彭越ほうえつ鉅野きょやにあり、魏の散卒をおさめ、衆が萬餘人あり、屬するところがありませんでした。田榮は彭越に將軍の印をあたえ、濟北さいほくを擊たしめました。


 秋、七月、彭越は濟北王・あんを擊殺しました。田榮はついにならびに三齊の地(齊と濟北、膠東を指す)に王となり、また彭越をして楚を擊たせました。


 項羽は蕭公しょうこうかくに命じて兵をひきいて彭越を擊たせましたが、彭越は大いに楚軍を破りました。



 さて張耳ちょうじは國にゆき、陳餘ちんよはますます怒って申しました。


「張耳は餘と功は等しいのである。今、張耳は王となり、餘はひとり侯である、これは項羽は平らか(公平)でない。」


 そしてひそかに張同ちょうどう夏説かえつをして齊王・田榮に説かせて申しました。


「項羽は天下の宰となったのに、平らか(公平)でありません。今、ことごとくもとの王を醜地(悪い土地)に王としています、そしてその群臣・諸將を善地に王とし、その故主(もとの主君)・趙王をい、そして北にだい(地名)に居らせています。餘は不可とおもいます。


 大王は兵を起され、かつ不義をゆるされないと聞きます、願わくば大王よ、餘に兵をたすけられよ、それらで常山(張耳)を擊つことを請います、そして趙王を復し、國をもって扞蔽かんへい(防壁)となることを請います。」


 齊王はこれを許し、そこで兵をつかわして趙にゆかせ、陳餘にしたがわせました。



 さて項羽は張良が漢王にしたがい、韓王・せいがまた功がなかったことから、そこで遣りて國にゆかせず、ともに彭城ほうじょうにいたらせ、廢して韓王・成を穰侯じょうこうとしました。すでにして、また韓王・成を殺しました。


 これは先に述べたところですが、重ねて記しておきます、『通鑑』ではここに記述があります。




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