蕭何の諫言、漢王、國につく

 みなが項羽を伐てという中で、蕭何しょうかは漢王に申しました。


 その前に蕭何という人について少し触れておきます。


 蕭何という人は、はいほうの出身の人です。文が枉害おうがい(誤り)がないとのことで沛の主吏しゅりえん(長官)となりました。主吏とは功曹こうそう(人事をあつかう職)のことで、上級の職です。人事部長か、それ以上の職にあたるのでしょう。


 漢王(漢・高祖)が布衣ほい(まだ頭角をあらわさないころ、平民)であった時、蕭何はしばしば吏事のことで漢王をまもることがありました。漢王が亭長となると、常にこれを左右(側に置く)にしました。漢王が吏として咸陽かんよう繇役ようえきにおもむいたときは、吏がみな送るに錢三を奉じたのに、何はひとり錢五をもってしました。


 秦の御史ぎょしで郡を監するものと事にしたがい、常に事を辨(弁)じました。何はそして沛を含む泗水しすい郡の卒史そつしとして事において、第一とされました。


 郡の卒史、書佐はそれぞれ十名ほどいたと注は言っていますが、郡内の二、三十名の官僚の中でトップの評価をえた、ということになるのでしょうか。


 秦の御史は言を入れて何をそうとしましたが、何は固く請うて、行かないようにすることができました。


 高祖が起って沛公となると、何はつねに丞となって庶事を督しました。


 咸陽において圖籍を守ったのは先にみたところです。


 その蕭何が諫言しました。



「漢中に王たるの惡といえども、なお死するよりはまされるようではございませんか?」


 漢王はおっしゃいました。


「どうしてか死ぬというのだ?」


 何は申しました。


「今、衆(兵数)はしかない(まさらない)ので、百戰すれば百敗します、死なずして何をかなしましょう?


 周書(『書経』の篇名)に申しております、『天予(天与)を取らなければ、かえってそのとがを受ける』と。古語に『天漢』と申します、その称は(天と漢を繋げており)はなはだ美にございます。


 そう、よく一人の下にくっ(屈)して、萬乘の上にのびたものは、殷の湯王・周の武王がこれでありました。(殷の湯王が夏の桀王、周の武王が殷の紂王に一時仕えたのちに王朝を開いたことをさしている)。


 臣は、大王が漢中に王となり、その民を養いそして賢人をまねき、巴、蜀を收用し、還って三秦を定め、天下を圖(図)ることができるのを願います。」


 漢王はおっしゃいました。


「善し。」


 そしてついに國に就かれ、蕭何を丞相とされました。



 また漢王は王となると、張良ちょうりょうに金百いつしゅ二斗を賜われました。張良はつぶさにそれらを項伯こうはくに献じました。


 漢王もまたそこで張良をして項伯に厚くつかわされて、漢中の地を請われました。項羽はこれを許しました。

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