項羽、諸王を立てる

 項羽はみずから以外にも、諸王を立てました。それを以下に述べていきます。


 この諸侯を王とした箇所は、『史記』項羽本紀、『史記』高祖本紀と『漢書』と三箇所、記載があります。『通鑑』は『漢書』の記載を中心として採用しているようにも感じます。


『史記』項羽本紀では項羽は最後に王に封じられたことになっており、『史記』高祖本紀、『漢書』ではみずからを先に王としたように記載がなされているようにもみえます。適宜、折衷してここは記載します。


 さて関中を三分し、秦の降將を王とし、そして漢の路を距塞きょさいしました。


 章邯しょうかんよう王となし、咸陽かんよう以西に王とし、廢丘はいきゅうに都させました。


 廃丘はいきゅうは周に縁がある土地であると注はいっていますが、深入りを避けます。


 長史のきんは、もと櫟陽れきようごくえん(役人でしょう)でしたが、かつて德が項梁こうりょう(項羽の叔父、武信君)にありました。


 都尉の董翳とうえいは、もと章邯しょうかんに楚にくだることを勧めました。


 そこで司馬欣を立ててさい王とし、咸陽以東で河にいたるまでの王として、櫟陽に都させました。


 董翳を立てててき王とし、上郡じょうぐんに王として、高奴こうどに都させました。


 項羽はみずからが梁の地をとりたいとのぞみ、そこで魏王のひょうを徙して西魏王とし、河東に王とし、平陽へいように都させました。


 瑕丘かきゅう申陽しんようというものは、張耳ちょうじ嬖臣へいしん(お気に入りの臣)でしたが、さきに河南郡をくだして楚を河上に迎えたことから、そこで申陽しんようを立てて河南王とし、雒陽らくように都させました。


 注によると、この当時の雒陽は県であり、三川の守(つまり秦末においては李斯の子・李由が郡守だった)が管理していた地のようです。


 成周(東周)の城で、周の周公(東周の官職)が築いた城ではないかとされます。後漢(東漢)が都を置いた地です。


 韓王のせいはもとの都であることから、陽翟ようてきに都させました。


 趙の將・司馬昂しばこう河内かだいを定め、しばしば功があったことから、そのために昂を立てて殷王となし、河内に王とし、朝歌ちょうかに都させました。


 趙王・けつを徙して代王となしました。


 趙相の張耳ちょうじはもとより賢であり、また關(関)に入るにしたがったことから、そのために張耳を立てて常山じょうざん王となし、趙の地に王として、襄國じょうこくに都させました。


 當陽とうよう君・黥布げいふは楚將となって、常に(功績が)軍に冠していたことから、そのために黥布を立てて九江きゅうこう王となし、りくに都させました。


 君(注は「ば(婆)」という音を「番」に当てています)の呉芮ごぜいは百越を率いて諸侯をたすけ、また關(関)に入るにしたがったことから、そこで呉芮を立てて衡山こうざん王となし、ちゅに都させました。


 義帝の柱國ちゅうこく共敖きょうごうは兵をひきいて南郡を擊ち、功が多かったので、そこで共敖を立てて臨江りんこう王となし、江陵こうりょうに都させました。


 燕王の韓廣かんこうを徙して遼東りょうとう王となし、無終むしゅうに都させました。


 燕將の臧荼ぞうとは楚にしたがって趙を救いました、そして關(関)に入るにしたがったため、そのために臧荼ぞうとを立てて燕王となし、けいに都させました。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る