項羽、義帝を立てる

 項羽こううは人をして命を懷王かいおうにいたし(届け)ました。


 懷王は申しました。「約のように(如約)。」


 そこでいいて申しました。


「天下が初めて難時をひらくとき、仮に諸侯の後を立ててそして秦を伐った。そうではあるが身に堅をかぶり、銳をとり、事をはじめ、野に暴露すること三年、秦を滅して天下を定めたのは、みな將・相の諸君と籍(項羽)との力であった。(また)懷王は功がないとはいえども、もとよりその地をわかちてこれに王たるべきである。」


 諸將はみな申しました。


「善し。」


 そこで天下を分ち、諸將を立てて侯王となすことにしました。


 項羽はおもてむきには懷王をとうとびて義帝ぎていとなし、申しました。


いにしえの帝は、地は方千里、必ず上游じょうゆう(上流)におります。」


 そして義帝を江南こうなん(長江の上流)にうつし、桂陽郡のちんに都させました。



 項羽は天下を分けて諸將を王としました。


 項羽こううはみずから立ちて西楚せいそ霸王はおうとなしました。


 注などには、史記・貨殖かしょく傳から、西楚、東楚、南楚のことを述べています。


『史記』貨殖傳には、越、楚には三俗が有る、として江南の地域を3つに分けて風俗を論じていますが、詳細はここでは省きます。


 ただ少し触れておきますと、淮北のはいから、ちん汝南じょなん南郡なんぐんの地域を、これを西楚とします。


 彭城ほうじょう以東の、東海とうかい廣陵こうりょうのあたりでしょうか、これを東楚とします。


 衡山こうざん九江きゅうこう江南こうなん豫章よしょう長沙ちょうさのあたり、これを南楚とします。


 項羽の出身地である下相かしょうは『漢書』地理志によると、臨淮りんわい郡に属していました。同じく『漢書』地理志によると臨淮郡は魯の領地の一部だったとされますが、それらは淮北のあたりで、項羽が西楚を名乗るのも、妥当なのでしょうか…。


 ともかく項羽はこれらの楚や、もと魏(梁)であった地域を中心に九郡に王となり、彭城に都しました。


 秦は三十六郡ほどで構成されていましたから、天下の四分の一程度を支配下に置いたわけです。


 さて項羽と范增はんぞうは、沛公はいこうが天下を有することを疑いましたが、業はすでに和解がなっていました、また約にそむくのをにくみましたので、そこでひそかに謀って申しました。


しょくの道は険しく、秦の遷人(流罪人)はみなここにおる。」


 そして申しました。


 「巴、蜀もまた関中の地である。」


 そこで沛公を立てて漢王とし、巴、蜀、漢中に王とし、南鄭なんていに都させました。


 巴、蜀、漢中とは、秦が置いた三つの郡の地とのことです。以下に地理の説明がありますが省きます。


 三十六郡に対する三郡、しかも当時は辺境に当たる三郡です。冷遇と言えるのでしょうか。


 さて項羽は関中を三分し、秦の降將を王とし、そして漢王を距塞きょさいし(防ぎ)ました。

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