第2章 項羽の時代

漢の由来、沛公への樊噲、張良の忠言

 さて物語は『資治通鑑しじつがん』巻九、漢紀かんきの一に入っていきます。


 注によると、項羽こううが天下を分かちて、諸将を王とした時、沛公はいこうしょく漢中かんちゅうに王として、漢王と言ったといいます。


 王(漢中王、つまり劉邦りゅうほう)は怒り、項羽を攻めようとしました。蕭何しょうかが諫めて申しました。


「語に『天漢てんかん(天の河)』と申します、その称ははなはだ美しいではございませんか。」ここにおいて王は國に向かったといいます。


 項羽をほろぼし、天下を有するにおよんで、ついに始封しほう(初めて封じられた国)によりて國名として号して漢といったのです。


 さて漢・高祖の元年(B .C 二〇六年)に入っていきます。


 冬、十月のことです。


 さて沛公は霸上はじょうというところにいたりました。


 さて秦王・子嬰しえい素車そしゃ白馬はくばくびるにを以ってし、皇帝のせつを封じて、軹道しどうのかたわらに降りました。



 さて、注はここの箇所、せつなどについて、さまざまな注を引用しています。


 秦王の子嬰は、それらをもって、軹道(霸陵にある亭の名前)に降ったのです。



 さてです、諸将のあるものは、秦王をちゅうせ、といいました。


 沛公はおっしゃいました。


「はじめ懷王かいおうが、我をつかわされたのは、まことによく寬容かんようであるためであった。かつ人がすでに降っているのに、これを殺すのは不祥ふしょうである。」


 そこで吏にゆだね監守かんしゅしました。



 賈誼かぎの論に言っています。


「秦は區區くくの地(雍州)で萬乘ばんじょうけんをいたし、八州(えんせいようけいゆうへい)をあげて同列を朝せしむること、百ゆう年であった。


 しかる後、六合りくごう(天、地、東、西、南、北)をもって家とし、こう山、函谷関かんこくかんを宮とした。


 一夫(陳勝ら)が難をなして七廟(三しょう、三ぼく、と太祖の廟の七つの廟、天子はさかのぼって太祖と六人の先祖をまつる)はち、身は人の手に死した。


 天下の笑いとなったのは、どうしてか?仁誼じんぎをほどこさないで攻守の勢いがことなったからである」、と。



 さて沛公は西に咸陽に入りました、諸将はみな争って金帛きんはく財物ざいぶつの府に走ってそれらを分けましたが、蕭何はひとりまず入って秦の丞相府の圖籍とせきをおさめそれらをぞうし(保管し)ました、このために沛公はつぶさに天下の厄塞やくさい戸口ここうの多少、強弱の場所を知ることができるようになりました。



 また沛公は秦の宮室、帷帳いちょう狗馬くば重寶ちょうほう、婦女の千をもって数えるものを見て、意はここにとどまっておりたいと欲せられました。


 樊噲はんかいが諫めました。


「沛公は、天下をたもつを欲されますか、それとも富家ふかおうとなられますか?


 およそこの奢麗しゃれいの物は,みな秦の亡んだ原因にございます、沛公は何を用いられるというのです!


 願わくば急ぎ霸上に還り、宮中に留ることのありませんように!」


 樊噲はいぬの屠殺人から身を起こしましたが、その識見はこのようなものでした。『資治通鑑』の注で、胡三省こさんせいはここに樊噲の諌言を激賞げきしょうしています。


 しかし沛公は樊噲の諫言をかれませんでした。


 張良ちょうりょうが申しました。


「秦は無道をなし、そのために沛公はここに至ることをえられました。


 それ天下のために殘賊ざんぞくをのぞき、よろしく縞素こうそ(喪服を着ること)して弔問にくるものをたすけとされますように。今、はじめて秦に入いり、すぐにその楽しみに安んじられれば、これはいわゆる、『けつぎゃくするところを助ける』というものにございます。


 かつ忠言は耳にさからいますが行いに利があり、毒薬は口に苦いものの病に利があります、願わくば沛公よ、樊噲の言をかれよ!」


 沛公はいこうはそこで軍を霸上はじょうかえされました。

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