酈食其と沛公、陳留をくだす

 陳留ちんりゅう近郊の昌邑しょうゆうがまだ下らないので、沛公はいこうは兵を引いて西に高陽こうようという小さな亭を通り過ぎました。


 高陽の人・酈食其れきいきは、家は貧しく落魄らくはく(仕事がなく、衰薄すいはくした様子という)し、里の監門(門番)となっていました。


 沛公の麾下の騎士に酈食其の里の中の人がおり、酈食其は騎士とまみえ、いって申しました。


「諸侯の將で高陽をすぎた者は数十人おるが、吾れがその將を調べるにみな握齪あくそく(せわしない)としており、苛酷な禮(秩序)を好んでおる。


 みずからを用い(頼み)、大度の言をくことができないようだ。


 吾れは聞いておる、沛公はまんにして人をあなどり、大略たいりゃくが多い、と。


 これはまことに吾れのしたがいあそぶを願うところである。ただ我がために先(先容せんよう、案内人)となるものがない。


 なんじ、沛公にまみえ、いいて申してくれ。


『臣の里の中に酈生れきせいというものがおります。年は六十餘で、たけは八尺あり、人はみな彼を狂生きょうせいと申しております。せい(酈食其)はみずからいっております。「我れは狂生ではない」と。』


 そう申してくれ。」


 しかし騎士は申しました。


「沛公はじゅ(儒者)を好まれない。諸客の儒冠じゅかんを冠して来たる者は、沛公はすぐさまその冠をいて、その中に溲溺そうじゃく(小便)される。その人といっては、つねに大いに罵しられる。いまだ儒生じゅせいで説くことができたものはない。」


 酈生(酈食其)は申しました。


ていよ、それを言え。」


 騎士は従容しょうようとして言うこと、酈生のいましめたところのようでした。


 沛公が高陽の傳舍でんしゃ(伝舎、宿所か)にいたると、人をして酈生をまねきて入謁にゅうえつにいたらせました。


 沛公はまさにきょして(蹲踞そんきょ、足を投げ出し)床におり、ふたりの女子に足を洗わせながら酈生にまみえました。


 酈生は入り、そして長揖ちょうゆう(会釈)したままではい(おじぎ)しませんでした。そして申しました。


足下そっかは秦を助けて諸侯を攻めようとされるのか、それとも諸侯をひきいて秦をやぶろうとされるのか?」


 沛公は罵しりて申しました。


豎儒じゅじゅめが!天下は同じくともに秦に苦しむことが久しい。そのために諸侯はそれぞれの軍を率いて秦を攻めておる。何をかいうや、秦を助けて諸侯を攻めんとは!」


 酈生は申しました。


「必ず徒をあつめるには、義兵をがっして無道の秦をちゅうするものです。きょして(足を投げ出して)長者にまみえるべきではありません!」


 ここに沛公は洗うのをやめ、たちて、剣をとり衣を着て、酈生を上坐につけ、酈生に拝謝しました。


 酈生はそこで六國の從橫しょうおうのときのことを話しました。沛公は喜び、酈生に食を賜いました。そして問うて申しました。


「計はまさにいずくに出でんとす?」


 酈生は申しました。


「足下は糾合の衆をおこし、散乱の兵をおさめましたが、萬人にも満ちておりません。それなのにみちを強き秦に入ろうとされる、これはいわゆる虎口をさがすものにございます。


 それ陳留は、天下のしょうで、四通しつう五達ごたつこうにございます。今、その城中にはまた積粟せきぞくが多くあります。


 臣はその令と善くしております。請いますに、その令を足下にくだらすことができるようにしとうございます。


 もし聴かれなければ、足下は兵を引きて陳留を攻めなされ、臣は內応をなしましょう。」


 ここに酈生を派遣して行かせ、沛公は兵を引いて酈生にしたがいました。


 ついに陳留をくだしました。


 そして酈食其を号して廣野君こうやくんとしました。


 酈生はその弟・しょうのことを言いました。


 時に商は少年をあつめ四千人をえていました。きたりて沛公に属し、沛公は酈商れきしょうしょうとしました。酈商は陳留の兵をひきいてそしてしたがいました。


 酈生はつねに説客ぜいかくとなり、諸侯に使いしました。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る