項羽(宋義)、北へ趙の救援へ向かう、沛公は関中をめざす

 楚は一旦、後方へ退いて体制を作りました。


 一方、章邯しょうかんはすでに項梁こうりょうをやぶり、楚の地の兵はうれうにたらずとし、そこで河を渡って、北に趙を撃ち、大いに趙をやぶりました。兵を引いて邯鄲かんたんにいたり、みなその民を河内かだいにうつし、その城郭を破壊しました。


 張耳ちょうじと趙王・けつははしって鉅鹿きょろく城に入りました。


 王離おうり涉閒しょうかんがこの鉅鹿城を囲みました。


 陳餘は北に常山じょうざんの兵をおさめ、数萬人をえて、鉅鹿の北に軍をしきました。これを河北の軍といいました。


 章邯は鉅鹿の南の棘原きょくげんぐんをしきました。


 趙はしばしば救いを楚に請いました。


 高陵君こうりょうくんけんは楚にあり、楚王にまみえて申しました。


「宋義は武信君ぶしんくん(項梁)の軍の必ず敗れるを論じました。おること数日にして、軍ははたして敗れました。兵がいまだ戰わないで先に敗れるきざしをみる、これは兵のことを知るというべきです。」


 王は宋義をしてともにことを計り、大いに宋義のいうことをよろこびました。


 そして置いて上将軍とし、項羽を魯公として次将じしょうとし、范増はんぞう末将まっしょうとし、そして趙を救いました。


 もろもろの別將はみな宋義に属させ、宋義のことを号して「卿子けいし冠軍かんぐん」(卿子とは卿の子、公子のような尊称という、冠軍とは上将のこと)とさせました。


 宋義にひきいられ、項羽たちは趙へと向かいます。



 一方、別の動きをみせるものたちがいました。


 これより時間はさかのぼります。楚の懷王は諸將とやくしました。


「先に関中かんちゅうに入りて関中を定める者は関中に王とす。」


 秦の地は西に隴關ろうかんがあり、東に函谷關かんこくかんがあり、南に武關ぶかんがあり、北に臨晉關りんしんかんがあり、西南に散關さんかんがありました(全て関所)。秦の地はそれらの關(関)の中におったために、そのために秦の地を關中(関中)と言いました。


 この時に当たり(二世皇帝の二年、後九月)、秦の兵は強く、常に勝ちに乗じて北へと敵、とうっており、諸将に先に關の中(関中)に入る利はありませんでした。


 ひとり項羽のみが秦が項梁を殺したことをうらみ、ふるって沛公と西へゆき關(関)へ入りたい、と願っておりました。


 懷王のさまざまな老將ろうしょうはみな申しました。


「項羽の人となりは、ひょう(せっかち)、かん(いさましい)、かつ(ずるい)、ぞく残害ざんがい)、である。


 もろもろのすぎるところを殘滅ざんめつしないものはない。


 かつ楚はしばしば西の地を進み取ったが、さきの陳王、項梁もみな、やぶれている。あらためて長者ちょうじゃをつかわし、義をたすけて西へ向かい、秦の父兄に告諭こくゆするにしくものはない。


 秦の父兄はその主に苦しむことがひさしい。今、まことに長者をえてゆき、兵が侵暴しんぼうすることがないなら、おそらく秦の地をくだすことができるだろう。


 項羽は派遣すべきではない。ひとり沛公のみがもとより寬大な長者であり、派遣すべきである。」


 懷王はそこで項羽に西へゆくを許さず、そして沛公をつかわして西に地をりゃくさせ、陳王、項梁の散卒をおさめて秦をたせました。


 ここに宋義と項羽が北へ趙へ救援に向かい、沛公は西に関中をめざすことになります。


 沛公はとうに道を取り、陽城ようじょう(『通鑑』の注には成陽せいようとする、『史記』に成陽とあり)と杠里こうりに行き、秦壁しんへき(秦の砦)を攻めて、秦と魏との二軍を破りました。

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