項梁、敗死し、楚軍、体制を直す

 項梁こうりょうはすでに章邯しょうかん東阿とうあにやぶり、兵を引いて西へ向かい、北に定陶ていとうにいたり、再び秦軍をやぶりました。


 項羽こうう沛公はいこうはまた秦軍と雍丘ようきゅうに戦い、大いに秦軍を破り、李由りゆうを斬りました。


 項梁は李由を斬ったこともあり、ますます秦を軽んじ、おごる色がありました。


 宋義そうぎが諫めて申しました。


「戦って勝ちて、将が驕り、卒がなまける者は、敗れます。


 今、卒は少しなまけておりますのに、秦の兵は日々ましております。臣は君のためにこのことをおそれます!」


 しかし項梁はきませんでした。


 そして宋義を齊に使いさせました。宋義は道に齊の使者、高陵君こうりょうくんけんにあいました。


 宋義は申しました。


こう(あなた)はこれから武信君ぶしんくんにまみえようとなされているのですか?」


 高陵君は答えました。


しかり(そうです)。」


 そこで宋義は申しました。


「臣が武信君ぶしんくんの軍を論じますに、必ず敗れるでしょう。公は徐行すれば死を免れ、疾行すれば禍に及びます。」


 この宋義の予言はあたりました。


 二世皇帝はことごとく秦の兵をおこして章邯の軍をまし、楚軍を撃ち、大いに項梁を定陶にやぶりました。


 項梁は死にました。


 楚の将軍・項燕こうえんの子、項梁は、驕っていたかもしれませんが、何度も秦軍と戦って散りました。


 時に連なって雨がふり、七月から九月にいたりました。


 項羽、沛公は外黃がいこうを攻めていまだくだせず、外黃を去って陳留を攻めました。陳留もくだりませんでした。


 武信君の死を聞いて、士卒が恐れましたので、そこで將軍・呂臣りょしんと兵を引いて東へいきました。懷王かいおう盱眙くいよりうつして彭城ほうじょうみやこしました。


 呂臣は彭城の東に軍をしき、項羽は彭城の西に軍をしき、沛公はとうに軍をしきました。


 魏豹ぎひょうが魏の二十城をくだしました。楚の懷王は豹を立てて魏王としました。


 後九月(こう、と読むか)になりました。


 この九月については、諸説あります。


 当時の秦のこよみは十月が年のはじめ、というように認識されています。


 だからこれについて、当時はまだこよみがなく、『史記』が時間軸を整理するために時間を設けて、後九月というものを作ったのだ、という説などがあります。しんこよみの実態は、よくわかっていません(ただ近年発掘された木簡には史料があるかもしれません)。


 農業をするのにあたり、こよみは重要です。いつ種をまくのか、いつ水をまくのか、気候や農作法と密接にこよみは結びついていたためです。


 うるう九月である、というのは大体の説で一致していますが、暦については措きます。そうみて進めます。


 楚の懷王は呂臣、項羽の軍をあわせ、みずからその軍をひきいました。


 沛公を碭郡とうぐんの長としました(ちょうとは郡守ぐんしゅのようなものではなかったかと注にはあります)。武安侯ぶあんこうほうじ、碭郡とうぐんの兵をひきいさせました。


 項羽を封じて長安侯ちょうあんこうとし、号して魯公ろこうとしました。


 呂臣を司徒とし、その父・呂青りょせい令尹れいいんとしました。


 楚の軍は、一度立て直しを図ります。

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