章邯の秦軍と、魏、齊、楚の軍、戦う

 章邯はすでに陳王(陳勝)をやぶったので、そこで兵を進めて魏王を魏の臨濟りんさいに撃ちました。魏王は周市しゅうしを出でさせて、救いを齊、楚に請いました。齊王・せんと楚將・項它こうたがそれぞれ兵をひきいて周市にしたがって魏を救いました。


 章邯は夜、ばいはしのような板という、物音をさせないためにくわえる)をくわえて擊ち、大いに齊、楚の軍を臨濟のもとに破りました。


 まあ、言葉を交わさないのに整然と敵に襲いかかれる。恐ろしく統率のとれた部隊だったのでしょう。


 章邯は齊王と周巿を殺しました。魏王・きゅうはその民のためにやくしてくだりました。やくが定まると、みずからいて自殺しました。焼身自殺、痛ましいことですが、宋留そうりゅう車裂しゃれつ(くるまざき)されているのを思うと、やむをえなかったのでしょうか。悲しい話です。


 その弟のひょうはにげて楚へ走りました。楚の懷王は魏豹ぎひょうに数千人を与え、また魏の地を攻略させました。


 齊の田榮でんえいはその兄・儋の余兵をおさめ、東に東阿とうあへと走りました。


 章邯は追って田榮を囲みました。齊人は田儋の死を聞き、そこでもとの齊王・けんの弟・を立てて王とし、田角でんかくしょうとし、かくの弟・けんを將とし、そして諸侯をふせぎました。


 秋、七月、大いに霖雨りんうしました(長雨のことだと言います)。


 陳勝の挙兵からここまで、一年しかたっていませんが、多くの国が立ち、秦軍はあちこちにその火消しに奔走しています。


 武信君ぶしんくん(項梁)は兵を引いて亢父こうほを攻めました。しかし田榮の急を聞き、そこで兵を引いて章邯の軍を東阿とうあのもとに撃破しました。章邯は走って西へ向かいました。


 深く秦の地から楚をへて魏へと侵入してきていた章邯の軍は、齊の本拠に近いところまでいたって、項梁により、撃退され、一旦退いています。


 田榮は兵を引いて東に齊へ帰りました。武信君はひとり北へ章邯の秦軍を追いました。項羽、沛公は別に城陽じょうようを攻め、これをほふりました。


 楚の軍は濮陽ぼくようの東に軍しました。


 項梁はまた章邯と戦い、また秦軍を破りました。


 章邯はそこで軍を整え、濮陽を守り、そのまわりに河を決壊させて水をめぐらしました。


 ここは秦軍の疲れがあったのか、項梁軍の勢いがまさったのか、秦軍は守りにまわっています。項梁と章邯は激しいせめぎ合いをしています。


 一方で、沛公、項羽は項梁軍をり、定陶ていとうを攻めました。


 八月になりました。


 田榮は齊王・假を撃ちておい、假はにげて楚へと走りました。本によっては、ここに、田角は趙にげ走る、とあるようです。


 田間はさきに趙を救い、そこで留ってあえて帰りませんでした。


 田榮はそこでせんの子・田市でんしを立てて齊王とし、榮はそのしょうとなりました。田橫でんおうが將となり、齊の地を平らげました。


 田氏一族があちこちに散らばっているのがうかがえます。


 さて章邯の兵はますます盛んとなりました、七月から一月たっています、その間に秦軍が集結してきたのでしょうか?


 項梁はしばしば使いを遣わして齊、趙に告げ兵を発してともに章邯を撃とうとしました。


 田榮は申しました。


「楚が田假を殺し、趙が田角、田間を殺せば、そうすれば兵を出す。」


 楚、趙は許しませんでした。田榮は怒り、ついにあえては兵を出しませんでした。


 項梁の援軍要請は、口実をつけられ、ここに成立しませんでした。

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