沛公、楚の軍に加わる、楚、懐王を立てる

 さて英布えいふ黥布げいふ)はすでに秦軍を破り、兵を引きて東にゆきました。項梁こうりょうが西にわいを渡ったのを聞き、英布(黥布)と將軍しょうぐんとはみな項梁に屬すこととなりました。


 項梁の衆はおよそ六、七萬人、下邳かひに軍しました。


 楚王をなのった景駒けいくと、秦嘉しんか彭城ほうじょうの東に軍し、そして項梁をふせごうとしました。


 項梁は軍吏にいって申しました。


「陳王はまず事をしゅとなりはじめられた。戦い利あらず、いまだあるところを知らない。今、秦嘉は陳王にそむいて景駒けいくを立てた。大逆・無道である!」


 そして兵を進め秦嘉を撃ちました。秦嘉の軍は敗走し、項梁はその軍を追いました。胡陵こりょうにいたり、嘉はかえって戦いました。一日にして、嘉は死し、軍は下りました。景駒は走って梁の地(魏の地)に死にました。


 梁はすでに秦嘉の軍をあわせ、胡陵こりょうに軍しました。まさに軍を引いて西にいこうとしたところ、章邯の軍がりつにいたりましたので、項梁は別將べつしょう朱雞石しゅけいせき餘樊君よはんくんをして章邯と戦わせました。餘樊君よはんくんは死し、朱雞石しゅけいせきの軍はやぶれ、にげて胡陵へ走りました。梁はそこで兵を引いてせつに入り、朱雞石をちゅうしました。


 沛公はいこうは騎百を従えてゆきて項梁にまみえました。項梁は沛公に卒・五千人、五大夫の將・十人を与えました。沛公は還り(りゅうへでしょうか?)、兵を引いてほうを攻め、これを抜きました。雍齒ようしは魏にはしりました。


 項梁は項羽こうう項籍こうせき)に別に襄城じょうじょうを攻めさせました。襄城は堅く守っておりくだりませんでした。すでに抜くと、項羽はみな、襄城の人をこう(穴埋め)にし、還って報告しました。


 なかなか、荒っぽい処置ではあります。


 さて、項梁は陳王の死が定まったことを聞き、諸別將を召して薛に会して事を計りました。沛公もまたゆきました。


 居鄛きょそうの人、范增はんぞうは、年・七十でしたが、もとより家にいて、奇計きけいを好んでいました、ゆきて項梁に説いて申しました。


「陳勝のやぶれたのは、もとより当然である。それ秦は六国を滅ぼし、楚はもっとも罪が無かった。懷王かいおうの秦に入ってかえらなかったときより、楚の人は懐王をあわれみ今にいたっている。


 だから楚の南公なんこう(南方の老人という意味であるとか、道家の道士ともいう)が申しております。『楚が三戶になったとしても、秦を滅ぼすものは必ず楚である。』と。


 今、陳勝はことをはじめ、楚ののちを立てずして自立したので、その勢いは長くなかった。


 今、君は江東こうとう(呉の地域)におこったので、楚の蜂起の將がみな、争って君に附したのは、君が世世よよ、楚将であり、よくまた楚の後を立てんとしたためである。」と。


 ここに項梁はその言をそのとおりだとし、すぐさま求めて楚の懷王かいおうの孫・しんが民間で、人のために羊を牧しているのをえました。


 夏、六月、項梁は心を立てて楚の懷王とし、民望みんぼうに従いました。陳嬰ちんえい上柱國じょうちゅうこくとし、五縣に封じ、懷王と盱眙くいみやこしました。項梁はみずからをごうして武信君ぶしんくんとしました。


 張良ちょうりょうは項梁に説いて申し上げました。


「君はすでに楚の後を立てられた。韓の諸公子では橫陽君おうようくんせいがもっとも賢であります。立てて王とし、樹黨じゅとう(党)をますべきであります。」


 項梁は良に韓成かんせいを求めさせ、立てて成を韓王としました。良は司徒しととなり、韓王と千餘人をひきいて西に韓の地を攻略し、数城をえましたが、秦はすぐまたこれらを取りました。そこであちこちを往来して潁川えいせん遊兵ゆうへいとなりました。


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