陳嬰、母の助言で、項梁に身を寄せる

 沛公はいこう張良ちょうりょうとともに景駒けいくに謁見しました。兵でほうを攻撃することを請おうとしました。


 しかし時に章邯しょうかん司馬しばが兵をひきいて北に楚を定めにかかっており、しょうを屠り、とうにいたっていました。そこで東陽寧君とうようねいくん(のちに東陽の人・陳嬰が出てくるが同一人物か不明)と沛公は兵を引いて西へゆき、協力してしょうの西に戦いました。利あらず、還り、兵を収めてりゅうにまたあつまりました。


 二月、碭を攻め、三日にして、碭を抜きました。碭の兵を収め、もとと合せて五、六千人でした。


 三月、下邑かゆうを攻め、下邑を抜きました。還って豐を撃ちましたが、下せませんでした。


 廣陵こうりょうの人、召平しょうへい陳王ちんおうのために廣陵を平らげようとしましたが、いまだ下せませんでした。陳王が敗走し、章邯がまさにいたらんとしていることを聞き、そこで江を渡り、陳王の令をめ、項梁こうりょうはいして楚の上柱國じょうちゅうこくとし、申しました。


江東こうとうすでに定まる。急ぎ兵を引きて西に秦を撃て!」


 項梁はそこで八千人で江を渡って西へ行きました。


 項梁は陳嬰ちんえいがすでに東陽とうようを下したことを聞き、使いを派遣して、ともに連り和して西へいこうとしました。


 陳嬰というものは、もとの東陽の令史れいしでした。令史とは、れいのもとにいた官吏かんりかと思います。


 陳嬰は県の中におり、もとより信謹しんきんで、称して長者といわれました。


 東陽の少年(血気盛んな若者を指す)がその令を殺し、それぞれあつまって二萬人となり、嬰を立てて王としようとしました。嬰の母が嬰にいって申しました。


「私(我)がおまえ(汝)の家の婦となってから、まだおまえ(汝)の先の古いもので貴いものがあったのを聞いたことがない。


 今、暴れて大名をえても、不祥である。屬するところがあるにまさるものはない。事が成ってもまだ封侯になれるだろう、事が敗れれば逃亡しやすいだろう、世の指名するところでないんだから。」


 嬰はそこであえて王とならず、その軍吏にいって申しました。


「項氏は世世(代々)、將の家である。楚では有名な名族だ。今、大事を舉げようとする。その人に力がなければ、できないだろう。我は名族にる。秦を亡ぼせることは必至だ。」


 そしてその衆はこの言葉に従いました。そしてその兵を項梁こうりょうに属しました。


 陳勝ちんしょうのように名をなすことを望み、微賎びせんの身からのし上がろうとするものもいれば、自分のことを考え、家族の言葉に従って、人に従うものもいる。それぞれの結末が別の行動を取っていればどうなったかはわかりませんが、ともかく人間の考えかた、心の働きや運命というものは面白いものだと思います。前で述べた宋留そうりゅう公孫慶こうそんけいのことも思い起こし、味わいたいものです。

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