投稿ご苦労様です。
ここでの項梁は、楚の懷王と韓の王の2人の王を並び立ててますが、少しその真意が分かりませんね。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
そうですね、王を簡単にポコポコ増やす、というのは考えてみれば不思議な気もしますね。日本の戦国の大名が自分と同格の大名を創る(傀儡や配下ならともかく)、なんてなかなかありえないですからね。
ただここでは戦国七雄?でしたか、元々敵の勢力であった地域に味方の勢力をつくる素地があり、そこに反乱を起こさせる目的があって、王を派遣したのでは。また樹党をます、協力する勢力(国)の軸をさらに増やして、秦の軍の勢力を分散させようとした目的があったのではないのでしょうか?
連合王国みたいに、王を複数いただいて、秦と戦おうという策にも見えます。張良の策でしょうか、経過を見ていただければ幸いです。
こんばんは、御作を読みました。
項梁の戦略は常識的です。
陳勝が、良くも悪くも千年くらい先の価値観を持っていただけですからね。王は本来、王の一族だけのはずだった。
その前提をぶん投げたから、大陸は延々と終わらぬ殺し合いを続ける地獄絵図に――と思ったけど、世界的に見て英国や日本が珍しいだけかも知れませんね。興味深いです。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
陳勝は千年くらい先の価値観を持っていた、至言かもしれません。
陳勝は楚・出身ですが、楚はやはり呉・越と同じように、文化的に感覚がすこし違ったのでしょうか、商鞅の法の統率の取れた秦の地域も特殊ですが、楚の地域もおそらく違う文化、考え方があったのでしょうか…。
当時は城郭都市を中心にした社会だったでしょうし、灌漑が各水系、流域でどこまで発展していたか、違いがあったと思います。そう考えると視野が全く違ってきますね、興味深いです、ありがとうございます。