黥布と番君のこと

 秦の左、右の校尉こういがまた陳を攻め、陳をくだしました。


 陳の周辺は攻防のラインとなっており、激しいせめぎ合いが起こっていたのかもしれません。りょ將軍は敗走しました。兵をあちこちにもとめてまたあつめ、番陽はよう)のとう黥布げいふい、秦の左、右の校尉を協力して攻撃し、それらを青波せいはに破り、また陳を楚のものとしました。


 黥布とは、りくという都市の人です。姓はえい氏といいました(つまり本名は英布えいふ)。


 秦の時、布衣ほい(単なる平民)でした。少年(若者)のころです、客があって人相をみて申しました。


「刑されて王となる。」


 壯年になって、法に坐して刑を受けました。布は欣然きんぜん(喜ぶさま)として笑って申しました。


「人は我をみて刑されて王となるといった。これでかなうのではないだろうか?」


 人の聞く者があって、みんなでこのことをたわむれ笑いました。


 罪に対する感覚といい、運命を信じる力といい、逆境を逆境ともしない、黥布の人柄がうかがえます。


 法に坐してげい(刺青のこと)され、刑徒けいととして判決が出て驪山りざん(秦・始皇帝の墓)に輸送されました。


 驪山の徒(造営にあたる囚徒しゅうと)は数十萬人いましたが、英布はみなその徒長とちょう・豪傑と交りつうじました。そこでその曹耦そうぐう(ともがら)を率い、にげて江中こうちゅうへゆきて群盜となりました。


 番陽令の吳芮ごぜいは、はなはだ江湖のあたりの民心をえており、ごうして番君はくんいました。


 英布(黥布)はゆきて吳芮ごぜいとまみえましたが黥布の衆はすでに数千人いました。番君はそこでむすめを黥布にめあわせ、その兵をひきいて秦を撃たせました。



 楚王の景駒けいくりゅうにいました。


 留は沛の東南にあった地で後に張良ちょうりょうが封じられた地です、地域的には楚にあたります。


 沛公はいこうはゆきて景駒に従いました。張良もまた少年(若い者)・百余人をあつめ、ゆきて景駒に従おうとしていました。道に沛公にたまたまい、ついに沛公に属することになりました。沛公は良をはいして廄将きゅうしょう(馬を掌る将)としました。


 張良はしばしば太公の兵法をもって沛公に説きました。



 張良については韓の宰相の系譜だったと以前に紹介しました。しかし秦の始皇帝の襲撃に失敗したあと、下邳かひに逃れ隠れていました。その頃に、この太公兵法に関する逸話が残されています。


 良がかつて暇があって気のおもむくままに下邳の橋の上をぶらついていました。一人の老父がおり、衣はかつ(粗末で黒ずんだ衣)をきていて、良がそこにいたると、すぐさまその履物はきもの)を橋の下へおとしました。かえりみて良にいって申しました。


孺子じゅし(小僧)、下りて履(履物)を取れ!」

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