楚の復活、沛公は雍齒を攻める、齊は動かず

 陳王のもとの涓人けんじん謁者えっしゃという役職のことだという)である將軍・呂臣りょしん蒼頭そうとう軍をつくりました。


 魏にもともと蒼頭軍・二十萬人という軍制があり、それによったのかとも言われます。士卒に青帛巾せいはくきん(青い布きれ)をさせたようです。


 新陽しんようち、陳を攻め、陳を下し、陳王を殺した御者の莊賈そうかを殺しました。また陳を首都として国の名を楚としました。陳王をとうに葬り、おくりなして隱王いんおうと申しました。


 先に、陳王はちつの人、宋留そうりゅうに兵をひきいて南陽なんようを定め、武關ぶかん(関所の名)から秦の地に入らせました。宋留はすでに南陽を平定していましたが、陳王の死を聞いて、南陽はまた秦となりました。


 宋留は軍ごと降服しました。


 背後はすでに秦となり、身は秦の地に突入していたわけです。


 二世皇帝は降伏した宋留を車裂しゃれつ(くるまざぎ)して地を平定しました。


 さて魏の周巿しゅうしが兵をひきいてほうはいを略し、人をして雍齒ようしを説かせました。


「豐は、もと梁(魏)王を徙した地、王が流刑にあっておられた地である。今、魏は地のすでに定めるものは数十城である。齒が今、魏に下れば、魏は齒を侯として豐を守らせよう。下らなければ、すぐにも豐をほふる。」 


 雍齒はいつまでも沛公はいこうぞくそうとは思っていませんでしたので、すぐさま豐ごと魏にくだりました。


 沛公は豐の雍齒を攻めましたが、ちませんでした。


 趙の張耳ちょうじ陳餘ちんよはその散兵さんぺいおさめ、数萬人をえましたので、李良りりょうを撃ちました。良はやぶれ、敗走して章邯しょうかんに帰属しました。


 客に張耳、陳餘に説くものがあり申しました。


「両君は羇旅きりょ(他国出身者)であります(趙出身ではないことを指す)、そうであるのに趙を一つの国とされようとしておられる。獨立できることは難しいでしょう。趙王の後を立て、輔佐してよしみをもってすれば(趙王の旗印のもとに国を立てれば)、功はなるでしょう。」


 それを聞き、二人は求めて趙歇ちょうけつを得ました。


 春、正月、張耳と陳餘は趙歇ちょうけつを立てて趙王とし、信都しんと(のちの襄國じょうこく、前漢では信都しんとと呼び、後漢では襄國じょうこくといった)にりました。


 東陽とうようの人・寧君ねいくんと、秦嘉しんかは、陳王の軍がやぶれたと聞き、すぐさま景駒けいくを立てて楚王とし、兵を引いて方與ほうよへゆき、秦軍を撃ちて定陶ていとうをくだそうとしました。


 公孫慶こうそんけいをして齊に使いさせ、齊とともに力をあわせともに進もうとしました。


 齊王は申しました。


「陳王が戦って敗れたが、その死・生を知らない。楚がどうしてわないで王を立てることができよう!」


 公孫慶は申しました。


「齊は楚にわないで王を立てられた。楚がなんのゆえに齊に請うて王を立てましょう!かつ楚は事をしゅ(はじめ)とし(ことの発端を担って)ています、だから天下に令することができるのです。」


 楚のために齊にゆき、援軍を請うた公孫慶ですが、相手にへりくだらず、上からまともに答えてしまったようです。


 田儋でんせんは公孫慶を殺しました。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る