秦、陳へと迫る、趙王・武臣の死

 秦の動きを追いましょう


 田臧でんぞうは諸將の李歸りきらに滎陽けいようを守らせ、みずから精兵で西に秦軍を敖倉ごうそうに迎えました。


(滎陽にごうという亭があり、秦が敖倉ごうそうという倉を立てていたということです。滎陽の西北の山上にあり、河にのぞんで大倉があったとも注は言っています。)


 そして秦軍と戦いました。しかし田臧は死に、軍はやぶられました。


 章邯しょうかんは兵を進め李歸等を滎陽のもとに撃ち、諸将をやぶり、李歸なども戦死しました。


 陽城ようじょうの人、鄧説とうえつが兵をひきいてたんきょうの間違いか)にいました。


 章邯の別將が鄧説を擊破しました。


 ちつの人、伍逢ごほうが兵をひきいてきょにおりましたが、章邯はこれも擊破しました。鄧説の軍も、伍逢の軍もみな散りぢりとなり、陳へ敗走しました。陳王は鄧說を誅殺ちゅうさつしました。


 ここまでは陳勝ちんしょうの軍が秦へと進軍していましたが、ここに章邯が三川をはじめとするそれらの拠点を逆向きに次々に壊滅させ、陳勝の本拠地、陳へと迫ることになりました。

 

 さて二世皇帝はしばしば李斯りしを責められました。


「三公の位(丞相じょうしょう)に居て、とう(反乱軍)がこのようであるのをいかにするのだ!」


 李斯は恐懼きょうくし、爵祿しゃくろくは重いものの、いだすところ(どうすればいいか)を知りませんでした。そこで二世の意に阿諛あゆし、書でこたえて申し上げました。


 ここの文、長文で引用しにくいのですが、一言で言えば、「民を督責とくせきせよ」、ということのようです。『申子』や『韓非子』などが引用されているようですが、厳しい締め付けが勧められています。


 さて、李斯の上疏を聞いた二世皇帝はどうしたでしょう?


 二世はよろこび、ここに督責とくせきを行うことをますますげんにし、民を税すること深きものは明吏めいりとし、人を殺すこと多いものは忠臣とし、刑されるものは道のなかばを埋め、そして死人は日々、市に積まれるようになりました。


 秦の民はますます駭懼がいく(驚き恐れる)して乱を起こすことを考えるようになりました。



 さて趙の李良りりょうはすでに常山じょうざんを定め、還って趙王(武臣ぶしん)に報告しました。趙王はまた李良に太原たいげんを攻略させました。石邑せきゆうに至って、秦兵が井陘せいけいふさいでおり、すすむことができませんでした。


 秦の将はいつわりて二世皇帝の書をつくり、封がなされていない状態でりょうに手に入るようにしました。


「良はかつて我につかえて顯幸をえていた。良が誠によく趙に反して秦とならば、良の罪をゆるし、良を貴くせん。」


 その書にはそう書いてありました。


 良は書をえましたがまだ信じることができず、還って邯鄲かんたんへと向かい、兵の増派を請いました。まだいたらぬうちに、道に趙王の姉が百騎ほどで出でて飲んでいるところにいました。


 良は望見ぼうけんし、王だとおもい、伏して道のかたわらに拝謁しました。


 王の姉は酔っており、その将を知りませんでした。騎乗きじょうのままで李良に拝謝はいしゃさせました。


 李良はもとより貴い身分の人間だったので、たち上がると、その從官じゅうかんたちにじました。從官に一人のものがあり申しました。


「天下が秦にそむき、のうあるものがまず立ちました。かつ趙王はもとより將軍より下の身分から出ております、今、女児じょじ(王の姉)は將軍のために下車しませんでした。請いますに追ってあれを殺しましょう!」


 李良はすでに秦の書をえていましたため、もとより趙にそむこうとして、まだ意を決していませんでした。しかしこの怒りによって、人に王の姉を追殺ついさつさせ、そしてその兵をひきいて邯鄲を襲いました。


 邯鄲はこのことを知らなかったので、ついに趙王・武臣、邵騷しょうそうは殺されました。


 趙の人で張耳ちょうじ陳餘ちんよの耳目となっていたものは多かったので,そこで二人だけは脱出することができました。

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