周章、敗れ、呉廣、田臧に殺される

 さて、『資治通鑑』巻八に入っていきましょう。


 二世皇帝の二年(B.C.二〇八年)


 冬、十月、泗川しせん郡の監(官名)のへい(人名)が兵を率いて沛公はいこうほうに囲みました。沛公は出て戦い、この軍を破りました。雍齒ようし(人名)に豐を守らせました。



 十一月、沛公は兵を引いてせつにゆきました。泗川のしゅそうの兵を薛にやぶりました。壮は走り(逃げて)せきにいたりました。沛公の左司馬さしばとくが壮を殺しました。


 ここに沛公は進撃を開始しています。



 一方、周章しゅうしょうは関から秦の地に出でて、とどまって曹陽そうようとんしました。二月餘りして、章邯しょうかんが追って周章をやぶりました。周章はまた澠池べんちへと走りました(逃げました)。十餘日して、章邯しょうかんが攻擊し、大いに周章を破りました。周文(周章)は自刎じふん(自殺)し、軍はついに戦闘不能となりました。



 陳勝ちんしょう起兵きへいしたのが七月、周章(周文)が二ヶ月持ちこたえて九月か十月、今、十一月となって、陳勝軍は秦の本隊の一つ、章邯の軍の反転攻勢を受けることになりました。動揺が走ります。



 周章が敗走した頃、吳叔ごしゅく呉廣ごこう)が滎陽けいようを囲んでいました。李由りゆう三川さんせんしゅとなり、滎陽を守っていました。三川とは三つの川が集まるところ、洛陽近辺の古くから戦略上重要だった地域です。


 秦は三川郡を立て、初めは洛陽をおさめ、後に滎陽に守備拠点をうつしたといいます。


 呉叔(呉廣)はこの李由の守る滎陽をくだせませんでした。



 この頃、秦の法令・誅罰は日に日にますます刻深(深刻)になり、群臣の人々はみずからを危ぶみ、そむこうとするものもおおくおりました。


 また二世皇帝は阿房の宮の造営をつづけ、直道、馳道の繕治をしており、賦・斂はいよいよ重く、戍(辺境の守り)・傜(徭役)はむことがありませんでした。


 楚の戍卒じゅつそつであった陳勝、吳廣等が亂をなし、山東に起兵すると、傑俊けつしゅんがそれぞれ立って、みずからを置いて侯王とし、秦にそむき、楚の兵は秦の関の中へ攻め込んできました。秦の兵は章邯によって率いられ反撃しましたが、楚の兵は鴻門(戲亭というところまで至った、という記述もあります)にいたってようやくそれらをしりぞかせることができるようなありさまでした。


 あちこちで秦の勢力は攻め落とされ、各地に兵は分断されていたのです。


 李由は李斯りしの子でした。


 李由は三川の守となり、群盜、つまり吳廣等が西に地を略し、過ぎ去ってとおりぬけることを禁ずることができませんでした。ここを通過した楚の軍、周章の軍が関を通って、秦の本拠地に迫っていたのです。


 しかし李由は孤立しつつも援軍を待ち、滎陽城を守っていました。



 楚の将軍・田臧でんぞうらはたがいに謀って申しました。


「周章の軍はすでにやぶれた。秦の兵は旦暮たんぼ(朝夕)にもいたるだろう。


 我れらが囲む滎陽城をくだすことができていない。秦兵がいたれば、必ず大敗するだろう、少しだけ兵を残して滎陽を守り、精兵をつくして秦軍を迎える(迎撃する)に勝るものはない。


 今、假王かおう(仮王・呉叔つまり呉廣)はおごっており、兵權へいけんのことを知らない、計事けいじに関与させるべきではない。やぶれるのを恐れる。」


 そこでそれぞれ陳王の令をめて吳叔を誅殺ちゅうさつしました。そしてその首を陳王に献じました。


 かつての同志の首を見た陳王は何を思ったのでしょう?今となってはわかりません。


 陳王は使いを遣わして田臧に楚の令尹れいいんの印をたまい、そして上将じょうしょうとしました。


 周章が敗れた今、次の防衛線は田臧のいる三川の地域になります。陳王には余裕はなかったのかもしれません。


 周章が敗れた今、次の防衛戦が迫っていました。

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