項梁、會稽を掌握する、田儋、起つ

 前話に引き続き、項梁こうりょうと、項籍こうせきの話を続けます。


 項梁は項籍を召して入れました。


 須臾しゅゆ(すぐさま)にして、項梁は項籍にめくばせして申しました。


おこなうべし!(実行しよう!)」


 ここに項籍はついに剣を抜いて郡守の頭を斬りました。


 項梁は郡守の頭を持ち、その印綬いんじゅびました。


 門下(郡の役所)は大いに驚き、擾乱じょうらんしました。混乱したわけです。項籍が、配下を率いてでしょうか、数十百人を撃殺しました。呉の一府の中はみな肝を抜かれて服従し、あえて郡守のためにつものはおりませんでした。


 項梁はそこでもとから知っていた豪吏ごうりまねき、大事を起こした理由をさとし、ついに吳の中の兵を挙げ、人をして郡下の県を収めさせ、精兵・八千人をえることができました。項梁が會稽郡守となり、項籍を裨將ひしょう(副将)とし、郡下の県をさらに攻めさせました。項籍(項羽)はこの時、年二十四歳でした。


 二十四歳でこれだけのことができる、勢いだったのかもしれませんが、並外れた胆力と才能かもしれません。



 さて次に齊について、田儋でんせんをみてみましょう。


 田儋は、もとの齊の王族でした。儋の從弟(いとこ、か)の田榮でんえい、榮の弟の田橫でんおう、みな豪健ごうけん(豊かで才能があった)で、宗族そうぞくは強く、よく人を得ました。


 周市しゅうしは地を攻略しててきにいたり、狄城を守りました。


 田儋はいつわりてその(自らの)しばり、少年を従えて廷(県令のいるところ)にゆきて、えつして奴を殺そうとしました。奴を官の許可をえて殺すということで狄の県令にまみえることになりましたが、その機会をとらえて狄の令を撃殺し、そして豪吏ごうりの子弟を召して申しました。


「諸侯はみな秦に反して自立した。齊は、いにしえ建國けんこくである。儋は、そして田氏は、まさに王となるべきである!」


 遂にみずから立って齊王となりました。兵を発して周市を撃ちました。周市の軍は撤退し去りました。田儋は兵を率い東に向かい、かっての齊の地を攻略し、定めました。


 それにしても、項氏一族(楚将そしょう項燕こうえんの子孫)、田氏一族(齊の王族)とも名族と言っていいでしょう。


 陳勝ちんしょう呉廣ごこう張耳ちょうじ陳餘ちんよたちの立身出世ぶりと、それは好対照をなしています。そして、沛公・劉邦りゅうほうとも。


 劉邦が沛県はいけんを配下に収めたころ、他の英雄たちはすでに大きな版図を抱えていたのかもしれません。しかし亭長ていちょうであった劉邦に、縣の官吏であった蕭何しょうか曽参そうしんが従っています。感覚がわからないのですが、劉邦という人の人柄は、名族でない分、一層不思議に感じます。


 しばしこれらの人物の行動を追いたいと思います。

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