劉邦に、壮士従う、『劉氏冠』

 單父ぜんほの人で呂公りょこうという人は、好く人をました。(人相をみるなどとも言いますが、どのようなみる、だったかはいまいち雰囲気が取れていないかもしれません。)(劉邦)の状貌じょうぼうをみて、劉季りゅうきとし(優れているとし)、むすめを劉季にめあわせました。これがのちに権力を振るう有名な呂后りょこうになります。


 單父縣とは山陽郡というところにあり、沛とは離れた場所にいたのでしょうから、旅人だったのでしょうか、劉邦は人に認められます。



 さて劉邦が咸陽に繇役ようえきで行ったとき、秦の皇帝をほしいままにゆっくり観る機会がありました。喟然いぜんとして太息たいそくして申しました。


嗟乎ああ、大丈夫はまさにこのようでなくてはならん。(大丈夫、まさにかくのごとくたるべし)」


 その気概をみるべきかもしれません。


 また劉邦が亭長となってから、竹の皮で冠をつくることがありました。盜を求めてせつの街に行ったときにこの冠を治めさせたといいます。時々にこの冠をかぶりました。貴くなってからも常にこれを冠としました。


 いわゆる、「劉氏冠」というものは、これのことでした。


 皇帝を見てての気概、竹の冠を着用し続けたこと。不思議な、劉邦の姿が見えるようです


 すでにして劉季は亭長として県のために徒(囚人)たちを驪山りざん(始皇帝の陵・墓)に送ることになりましたが、徒は多く道すがらにげました。劉季はみずからはかり、驪山にいたるころにはみなげてしまうだろう、そう考えました。


 ほう(沛の中のきょうとも、ゆうともいう)の西のたく中の亭にいたると、劉季たちはとどまりて飲みました。夜、そこで送るところの徒を解き放ち、申しました。


公等こうら(君たち)、みな去れ(逃げなさい)、吾れもまたこれよりかん(私もここで逃げよう)!」


 徒の中の壮士そうしで従うのを願うものが十餘人おりました。


 想像してください。あなたは数十人か、数百人かの囚人か、徴発ちょうはつされて労役ろうえきへと向かう人たちを率いている。それらのもののうち、突然逃げ出すものが現れた。


 あなたならどうしますか?


 これまでなら秦の法律は厳しい。驪山りざん造営ぞうえいということで、始皇帝がなくなったことはわかっている頃だとは思いますが、二世皇帝が即位してのちは締め付けが厳しくなったことがわかっていたと思われます。


 その中で、秦に忠義立てして囚人や、役徒えきとをひったてるのが、普通の人間というものでしょうか。無事に国家の役に立つ、秦の秩序に従う、そういう考えもあったはずです。


 全員を逃してしまう。それには厳罰が伴うでしょう。逃げ出して、逃亡生活を送る、どうなるかわからない。そのような状況に、自らを投じる。その時、「それでも、あなたについていきます」、そういう人間がすぐさま十数人も現れる。


 時代を読む目、人を見る目、この劉邦という人物は、面白い人物なのかもしれません。これは、私の考えすぎでしょうか。


 そこのところなどを、もう少し見てみましょう。

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