王媼、武負、歳末には劉邦の券を折る

 ここに漢の高祖・劉邦りゅうほうのことを述べておきましょう。


 劉邦、あざな、人となりは隆准りゅうわい龍顏りゅうがん(りょうがん?)であり、左の股に七十二の黑子ほくろがありました。


 注によると、「隆准りゅうわい」、としましたが、諸説があり、主としてわいについては「鼻」であるとされ、鼻が高い(たかい)というような説が主力なのかもしれません。他にも頬の表現である、とする説もあるように読めるのですが、複雑でよくわかりません。


 人を愛し、施しをなすことを喜び、こころ豁如かつじょ(からりとして大いなる様がある)としていました。常に大度たいど(大きな志)があり、家人につかえて生產作業をしませんでした。


 壯となるにおよび、吏に試用され、、泗上しじょう泗水しすいのほとり)の亭長ていちょうとなりました。


 秦の法では、道に十里に一亭を置きました。亭長は、亭をつかさどる吏でした。亭とは、おもうに、客旅かくりょをとどめて宿食しゅくしょくさせる館のことではないかと考えられています。


 胡三省の注は、『史記正義』という『史記』の注釈書を引いていますが、そこには、『國語』という本に寓室ぐうしつというものがある、すなわちこれこそ今の亭である。亭長とは、おもうに今の里長りちょうで、民が訟諍そしょう(訴訟)があれば、吏はとどめべん(弁)をみて、その政治がなるようにした、というようなことが書かれています。(だいぶ意訳しました、どこまでが『史記正義』、『國語』からの引用かわかりにくいのですが、参考になればと思います)


「泗上」については、『史記』は「泗水」としているようです。


 亭長が、旅館というか、往来する人々の宿るところの主であったのか、小さな行政区画の主であったのか、だいぶ違うと思うのですが、ここでは両説を念のため残しておきます。


 自分としては、人に会う仕事をしていたからあのような大活躍をしていたのではないかとも思うのですが、一生を一地方官で終わりつつ立派な思想を残した人物などもいることから、一概には言えないかもしれません。


 ただ廷中の吏(郡の府の吏という)で劉季を狎侮おうぶ(侮る)しないものはいませんでした。


 劉季は酒と色を好み、常に王媼おうおう武負ぶふ(媼、負とも老女という意味)より酒を貰いました。


 時に飲んで醉って臥せましたが、武負、王媼がその上をみるに常に怪が有りました。『史記』には龍が見えたといいます。高祖はいつも酒を留って飲んだので、老女たちの酒のうったものは人の数倍もの値段になりました。しかし怪異を見てからというもの、歲が終わって「かけ」を取り立てるにも、この両家は常に券(借用書の木簡)を折ってしまい劉季の責を棄てることにしていました。


 只者ただものならぬ、と人に思わせる何かを劉季、つまり劉邦は持っていたようです。

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