韓廣と燕人のこと、劉邦、項梁、田儋

 もとの上谷じょうこく卒史そつし(上谷郡の官吏)であった韓廣かんこうをして兵をひきいて北に燕を攻略させたのは、意外な展開となりました。


 燕地の貴人・豪傑は韓廣にいって申しました。


「楚・趙はみなすでに王を立てました。燕は小さいといえども、また萬乘の國でございます。願わくば、將軍が立ちて王となられんことを。」


 韓廣は申しました。


「廣の母は趙にいる。不可である。」


 人質を取られていたのでしょうか、韓廣は一度は断ります。


 燕の人は申しました。


「趙はまさに西に秦を憂えており、南に楚を憂えております。その力では我を禁ずることはできません。


 かつ楚は強いのに、あえて趙王の將相の家をそこないませんでした。今、趙もまたどうしてあえて將軍のご家族をそこないましょうや?」


 韓廣もそうであるとおもい、そこで自立して燕王となりました。居ること数月にして、趙は燕王の母と家屬を奉じておくって来たとのことです。



 さて、文のあちこちで、陳勝ちんしょうが功臣を、讒言を信じて誅殺ちゅうさつしているということが聞こえた、と文中にあります。この当時の反乱軍は、互いに殺しあう、まだ烏合うごうの衆、寄せ集めの集団だったのでしょうか。


 しかしその寄せ集めの集団の動きが、次々に新しい動きを生んでいきます。


 九月になりました。


 はいの人、劉邦りゅうほうが兵を沛に起こしました。


 下相かしょうの人、項梁こうりょう(楚の将、項燕こうえんの子孫という)が兵をに起こしました。


 てきの人、田儋でんせんが兵をせいに起こしました。



 二世皇帝が即位してから、七月に陳勝たちが反乱を起こし、楚を建国しました。八月に趙が独立し、勢力を拡大し始めました。そして九月になって、劉邦と項梁(項羽こううの叔父だったと思います)が登場し、斉にはでん氏が現れました。


 ここまで述べたことは、二ヶ月から三ヶ月もない間に、一斉に、集中して、各地で起こったのです。


 長年続いた秦の圧政がゆるんだことを、人々が肌で感じたのでしょう。


 秦は天下を分けて郡県とし、郡にはしゅかんを置きました、縣にはれいじょうを置きました。


 つまりこの当時、まず秦は郡・県(縣)をしいていました。そして郡には守・尉・監がおり、県には令・尉・丞がいたということです。そして彼らのもとにも属官がいたと考えられます。それらの支配が本来であれば緻密な法の体系で、人民を支配していました、


 この時期になって、それらが緩んできたのだと考えられます。


 そして反乱が起こり、英雄たちがその歩みをはじめることになりました。


 時代の動きを、このまま追ってみたいと思います。

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