章邯、周文(周章)の軍を破る

 陳王ちんおう陳勝ちんしょう)はすでに周章しゅうしょう周文しゅうぶん)らを派遣し、秦のまつりごとの乱れを聞き、秦を軽んじる様子が伺え、また備えを設けませんでした。


 博士の孔鮒こうふが諫めて申しました。


 陳涉の王となると、魯の諸儒は孔氏の礼器を持ってゆきて陳王に帰した、と『史記』儒林列伝にあります。ここに孔甲(孔鮒)が陳涉の博士となっていたのです。


 なお孔鮒は、魏のしょうであった子順しじゅんの子で、孔子の八世の孫であり、前からの書をおさめていた者であると注にはあります。その孔鮒が申しました。


「臣が聞きますに、兵法に、『敵の我を攻めざるをたのまず、吾の攻められないことをたのむ。』とあります。今、王は敵を恃んでみずからを恃んでおられない、もしことがてつして(うまくいかないで)振るわなければ、これを悔いてもおよぶことがないのではございませんか。」


 陳王は申しました。


寡人かじん(私)の軍は、先生にるいなし(関係がない)。」


 まあ、孔鮒の諫言を聞かなかった、無視した、ということです。


 周文は行って兵を収めつつ関(秦のどの関所かわからない)にいたり、車は千じょう、卒は数十万となり、戲水ぎすい(河の名)にいたって、軍を敷きました。


 訓練されていないとはいえ、数十万、蒙恬もうてんが率いていた軍と、かなり近い数字になります。


 二世皇帝はそこで大いに驚き、群臣と謀って申されました。


「いかんせん(どうしよう)?」


 少府しょうふ章邯しょうかんが申し上げました。


 注の引く文によると(『漢書』職官表しょくかんひょうから引いたようです)、少府とは、秦の官で、山林のことをつかさどる、たくをもって供養きょうようきゅうするものだった、とのことです。


 のちに蕭何しょうかという漢の武将が、秦の図籍とせきを掌握してその功績をたたえられるのですが、章邯という人物は、少府という官として、全国の山林、池、たく(湿地帯か?湖かもしれない)などの地理の情報を把握し、税を管理していた官吏だとみていいと思います。


 全国の地理を知っていた、全国津々浦々の情報を知っていたわけです。おそらく陳勝の軍にはそのような情報はないでしょうから、この時点で、章邯は有利に立っています。伏兵を置いたり、どこから攻めれば有効かを、すでに知っているわけですから。


 さて、その章邯が申し上げました。


とう(反乱軍)はすでにいたりまして、おおく強うございます、今、近県より兵を徴発しても、およばないでしょう。驪山りざん(始皇帝の陵、つまりお墓)の徒(動員された囚人)は多うございます。願わくば彼らをゆるして、兵(おそらくここでは武器)を授けそして叛徒はんとを擊ちましょう。」


 二世皇帝はそこで天下に大赦し、章邯に驪山りざん囚徒しゅうとを免除させ、人奴じんど(人の奴隷?召使いとなっているもの)の產子さんし(産んだ子)を、ことごとく徴発してそして楚軍を撃たせ、大いに楚軍をやぶりました。


 陳の烏合うごうの衆を、秦の軍略のある将が率い、囚人たちの勢いのある軍が撃ったのですから、当然だったかもしれません。


 周文(周章)は走り(敗走し)ました。

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