陳勝、兵を派遣す、張耳、陳餘、趙をいく

 陳勝ちんしょうの勢力は拡大を始めました。


 張耳ちょうじ陳餘ちんよはまた陳王に説きました。


「お願い申し上げます、奇兵で北を攻め趙の地を攻略しましょう」


 ここに陳王は元からくするところ(親しくしている人か)の陳の人、武臣ぶしんを将軍とし、邵騷しょうそう護軍ごぐんとし、張耳、陳餘を左、右の校尉こういとし、卒三千人を与えて、趙を攻略させました。


 陳王はまた汝陰じょいんの人、鄧宗とうそう九江きゅうこう郡(東の方向に当たる)を攻略させました。



 さて、陳勝の命令で、陳の周辺の攻略を進めていた葛嬰かつえい東城とうじょうに至ると、襄強じょうきょうを立てて楚王としました。陳王がすでに立ったのを聞き、そのために襄強を殺しそのことを還って報告しました。しかし陳王は葛嬰を誅殺しました。


 陳王の影響力の限界と、臣下の動きとして非常に興味深い事例なのですが、ここでは置いておきましょう。


 さて陳王は周市しゅうしをして北に魏の地を攻略させました。


 上蔡じょうさいの人、房君ぼうくん蔡賜さいし上柱國じょうちゅうこくとしました。(ぼうとはゆうの名で、ぼうの君(長か)ということ)


 柱國ちゅうこくとは国の柱、宰相さいしょうのポジションですから、内政を整えるということでしょうか。


 また陳王は周文しゅうぶん(周章)が、陳の賢人で、兵(戦いの方法)を習っていることを聞きました。


 周文とは、陳の賢人とされ、かつて項燕こうえんの軍の視日(占いによって軍の行動を決める官という)となっていました。春申しゅんしん君にもつかえ、みずから兵を習うといっていました。


 そこで将軍の印を与え、西に秦を撃たせました。


 ここに旧・楚の中心であった陳の都市にった陳勝が軸となり、北に趙の旧領地に武臣をリーダーとし張耳、陳餘らが、東の楚の旧領地に鄧宗らが、北に魏の領地に周市らが、西に秦の領地に周文らが向かうことになり、一挙に多方向に向かって反乱が広がることになりました。


 武臣らは白馬の渡しから河を渡り、諸県にいたるごとに、その豪傑に説きましたので、豪傑はみな、彼らに応じました。


 それらの豪傑にこう説いたと申します。


「秦が乱政らんせい虐刑ぎゃくけいをなして天下を残賊ざんぞくすること、数十年にもなった。


 北に長城の役があり、南に五嶺のじゅつがあり、外・內は騷動し、百姓ひゃくせいは罷めつかれ、頭会とうかい箕斂きれん(色々な税を取り立て、箕ですくうように収奪すること)し、そして軍費に供した。


 財はつき力もつき、民は生をたのしむことがなかった。これに重ねるに苛法・峻刑をもってし、天下の父子をしてそれぞれ安んずることがなかった。


 陳王はひじを奮って天下の倡始しょうしとなり、楚の地に王となられること方二千里だった。響應きょうおうしないものはなく、家はみずから怒りをなし、人はみずから闘いをなし、それぞれその怨みに報いてそのあだを攻めようとしている。県はその令・丞を殺し、郡はその守尉を殺した。


 今、すでに大楚には勢いがあり、陳に王となられ、吳廣ごこう、周文をして卒・百萬をひきいて西に秦を擊たせられた。


 この時において封侯の業をなさないものは、人豪ではないではないか。


 諸君は試みにそれぞれこのことを計られよ。


 天下は心を同じくして秦に苦しむことは久しかった。天下の力によって無道の君を攻め、父兄のうらみに報いて割地有土の業(諸侯となること、地を割き、土地を有する)を成す、これは士の一時である。」


 この説得を聞き、豪傑はみな、彼らに応じたのです。


 そして行くごとに兵を収め、数萬人をえました。そして武臣を号して武信君ぶしんくんとしました。


 しかし趙の十餘城を下しましたが、他はまだみな城を守っていました。そこで兵を引き東北に範陽はんようを撃ちました。


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