張耳、陳餘と刎頸の交わり

 さて反乱が起こり始めました。


『史記』二世皇帝の本紀には、「山東の郡縣(県)の少年(若者)は秦吏に苦しんでいたので、みなその守・尉・令・丞を殺して反乱をおこし、そして陳涉ちんしょうに應(応)じた。それぞれ立って侯王と為り、合從して西へむかい、名を、秦を伐つ、とするものが、數(数)えきれないほどだった」、とあります。


 それらをみていきましょう。


 初め、大梁たいりょう(魏の首都か)の人、張耳ちょうじ陳餘ちんよはたがいに刎頸ふんけいまじわり(首をねられても後悔しない付き合い)をなしていました。


 張耳 という人は、前述のとおり大梁の人でした。そのわかい時に、魏の公子・毋忌むき(信陵君)の客となっていました。


  張耳はかつて亡命し、逃げてでしょう、外黃に游びました。


 外黃の富人のむすめのはなはだ美しいもので、庸奴ようど(傭い人か)に嫁して、その夫を亡くしたものがありました。そこでその庸奴の家を去って父の客に身を寄せていました。父の客はもとより張耳を知っていましたので 、そこで女にいって申しました。


「必ず賢夫を求めようとするのなら、張耳に從いなさい。」


 女はいて、そこでそのために父の決定を請いました。そして父は娘を張耳に嫁がせました。


  張耳はこの時、身は家を脫して游んでおりましたが、女の家は厚く張耳に奉給しました。 張耳はそのために千里に客となることができました。そして魏の宦(官)として外黃令となりました。


 名はこのためにますます賢とされました。


 陳餘という人は、またこれも大梁の人でした。儒術を好み、しばしば趙の苦陘くけいというところに游びました。


 富人・公乘こうじょう氏というものがそのむすめを陳餘に妻とさせました。この人もまた陳餘が常人でないことを知っていたからでした。陳餘は年がわかかったので、張耳に父事し、両人はそれぞれ前述のとおり刎頸ふんけいの交りをなしました。


 秦が大梁を滅しましたので、 張耳は外黃に家をおきました。漢の高祖(劉邦)が布衣ほい(身分が低い)の時に、かつてしばしば張耳に從って游び、客となること数月でした。


 これについては、高祖も呂氏という富人にみそめられています、共通点があったのかもしれません。


 さて秦が魏を滅ぼしたとき、二人が魏の名士であると聞き、賞を重くして彼らを購求こうきゅうしました。張耳と陳餘はそこで名と姓とを変え、ともに陳にゆき、里の監門かんもんいやしい官吏、正衛せいえい、門番であったか)となってみずから食を養っていました。


 里の官吏がかつてあやまって陳餘をむちで打ちましたので、陳餘はたって反撃しようとしました。張耳は陳餘を足でふみつけ、笞を受けさせました。


 吏は去りました。張耳はすぐさま陳餘を引っぱってくわの木の下にゆき、せめて申しました。


「はじめ、吾と公とはどのように言っていたか?今、小さなはずかしめにあって一吏の手に死なんとは!」


 陳餘はそこで張耳に謝りました。


 二人には大望があったのでしょう。


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